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漫画

ねじまきカギュー 8巻 感想

お爺さんは帽子を拾い上げてから、少女に言った。
「君が決めるんだ」


白熱する生徒会との戦い。
カモ先生が窈と対峙すると見せかけてマブ姉を糾弾する展開もシビレたけれど、それ以上に富江&朱羽VS走&小鹿が最高だった。今の所この作品でベストバウトかもしれない。

この両コンビのバトルでは二重三重の相対化された意志・概念が渦巻いていて、その決着を最終的に各陣営の総大将であるカギューちゃんと生徒会長衿沙に託した構造になっている。

まず明確に対比構造として描かれたのはそれぞれの関係性。
走と小鹿は理想的なライバル関係。普段はいがみ合いながらも互いの力を認めていて、いざとなれば絶妙のコンビネーションを発揮する自他ともに認める「好敵手」だ。
一方の富江と朱羽は、共通の敵を前にしても隙あらば互いをぶちのめそうとする犬猿の仲で、互いを拒絶する力がマイナスの相乗効果を生む「嫌敵手」と称される。お前ら主人公側だろと(笑)
普通ならこういう仲悪い主人公組コンビは最初はバラバラで劣勢→仕方なく協調して逆転となるのに、この作品は2対2では圧してる→「やめやめ、タイマンだ!」とまったく逆になっている辺り捻くれてると思う。たがそこがいい。
よくよく考えると、互いを認めたくないがために張り合う富江と朱羽の関係は、カモ先生より理事長のキャライズムに近い気がするけど、まあ実際に片方が潰れるようにはなってないからこれはこれでバランスが取れてるのか。
この二つのキャライズム、まだちょっと理解しきれてないかなー。


そしてタイマン勝負でも、各々の「個性」の対立関係が浮き彫りにされる。
富江と走は、それぞれ「文系」「体育会系」という明確なワードでの対比が為された。
走は部屋に閉じこもって空想の世界に入り浸る富江を糾弾し、現実世界で闘うようにと先輩風を吹かす。先輩は後輩を導くものであり、縦社会の正しさを強調する彼女は富江の信じるものまでも否定する。
富江が信じるカギューちゃんたちとの友情を、走は形のない不可視で曖昧な空想《フィクション》と断じ、目に明らかな組織や階級こそがこの世のリアルだと声高に主張する。
走が信仰する「体育会系」の理念は、要は社会の中で自然に出来上がってきた暗黙のルールである。年功序列の縦社会や、汗を流すことの健全性を過剰に信じる。読書など現実逃避にしか過ぎず、言葉で飾った関係性などはすべて偽物なのだという彼女に、富江はひどく激怒した。

ここからの富江が熱すぎて泣けてくる。
自分が今まで打ち込んできたことは、どんなに曖昧でも自分を裏切らない。それが自分の「個性」を形成している。
かつては「空想」の世界だけが生甲斐だった富江。確かにそれは走の言う通り現実逃避だったのかもしれない。しかし、カギューちゃんと出会ったことで現実《リアル》にも「空想」の世界と同じくらい素晴らしいものがあるのだと気付く。
この時から彼女の中で「空想」と「現実」は等しく尊い、価値あるものとなり相互的にリンクすることで一つの信念に結実する。
「空想に逃げてきたお前より、現実で闘ってきた自分のほうが強いに決まってんだろォォ!!!」
《フィクション》の力で自分と同等の力を得た富江を認められない走の叫びに、彼女はこう答える――。
「空想だって信じ切れば、それが現実よ……!!!」
空想も現実も関係ない。自分が信じるものが「個性」であり、それが強さになるのだと。
基本朱羽の方が好きだけど、この巻に限っては富江のカッコ良さが突き抜けてたなぁ。


一方の朱羽と小鹿は、「嘘」という観点からするとある意味で同類だ。
皆の人気者でいるために、影で努力して「完璧」を演じていた朱羽は周りを偽り続けるうちに本当の自分が見てもらえないというジレンマに陥り、周囲を敵視して孤独を感じていた。
一方小鹿は感情を表に出さず、口の悪さが目立つがカモ先生によると実は友達が多い優しい少女らしい。実際にライバルである走のことも心配していて、仮面の奥の素顔を朱羽に看破され「道具を装った人間じゃん」と指摘されていた。

表向き人気者だけど、その裏では誰をも信用できず孤独に苛まれていた朱羽。
本当は他人を思いやれるのに、会長の道具になるため自分を偽り感情を殺そうとしていた小鹿。

事情は真逆、だがそれぞれ自分に「嘘」を吐いていたという点では共通している。
ただ、朱羽はカギューちゃんと出会うことで既に孤独から脱却しているんだよね。己を決して偽らず、真っ直ぐな彼女に影響されて朱羽は初めて本当の友達を作ることができた。
かつて同じ境遇だったからこそ、朱羽は小鹿に「自分に吐く嘘は辛いでしょう!?」と問いかける。小鹿へのその言葉は、つまり彼女と生徒会長衿沙の関係性に集約されているわけだ。

そしてそこにこのタッグマッチに潜む最大のテーゼがある。
すなわち、カギューちゃんと衿沙という二人のリーダーの在り方の違いだ。
走と小鹿は衿沙の部下としてそれぞれただ彼女の目的のための駒となり、彼女の言う事を実行する手足だ。
走は体育会系精神から階級的に自分の上司に当たる衿沙を聖人とし、自分は彼女の言葉にただ従うのみと言う。富江はそれは思考を放棄しているだけだと唾棄し、「会長が「死ね」と言えば死ぬの…?」と問うが、走は真っ直ぐな目で「会長ならその言葉にもきっと意味を与えてくれる」と返してみせる。
小鹿は先述した通り衿沙のために自らの意志を捨てる決意をしてまで忠誠を誓った。

そこまでして二人を始めとした生徒会メンバーが衿沙を妄信する理由として、彼女の絶大なカリスマ性が描かれている。生まれ持ってのヒーローで、文武両道のなんでもできる完璧超人。自分たちより絶対的に強い「個性」に惹かれた彼女たちにとって、衿沙の言葉はまさに「絶対」なのだ。衿沙の能力に言葉の強制力があるのも、こうした彼女の性質を表しているのだろう。
実際にこの関係性が悪いわけではない。古今東西あらゆる創作物で絶大なカリスマを持つ人物に絶対の忠誠を誓う物語は王道である。
ただ、だからと言って自分が考えることを放棄するのはちょっと違うなあと思うし、何より衿沙のカリスマ性が作中人物の言葉ほど説得力を感じないんだよね。神の視点から見てるからか、単に描写が足りないからか、衿沙は胡散臭く描かれているからそこまで心酔するほどのカリスマがあるかというと疑問が残る。いや、多分わざとやってるから瑕疵ではないんだけど。衿沙の本心は意図的に隠されてる、というか本人も良く分かってないっぽい。

一方カギューちゃんの影響力は作中の言葉に当てはめると「求心力」。
ただただ真っ直ぐに相手にぶつかり、純粋な心で冷え切った感情を溶かしてくる。
衿沙のカリスマ性と違うのは、カギューちゃんに惹かれた人たちは皆「自分を変えようとする」ことだ。「憧れ」という感情はどちらも同じだが、自分も同じ様に生きたいと思えるかどうかが分かれ目かな。衿沙への憧れは「信仰」に近いもので、カギューちゃんへの憧れは「対等になりたい」という気持ちだと思う。
だから、富江と朱羽はカギューちゃんに出会うことによって変われた自分たちを自覚して「今のほうが楽しい!!!」と言い切って見せた。こいつ等最高だなー、今後もインフレに置いて行かれずに活躍し続けてほしい。
結局は、富江が示したように、そしてカモ先生が窈を諭したように、まずは自分を信じないと始まらないのだと思う。窈のように自分を信じられず悪者と思いこんでしまうと袋小路にはまっちゃうしね。まあマブ姉のように狂ったままブレないのも考え物だけど(笑)
「何が正しいか」の判断を絶対的強者の定義に委ねるのではなく、自分で決めるのが真に強い「個性」の在り方なのではないだろうか。

しかし、結局この2コンビの戦いに決着は付かない。なぜならここで勝敗が決まると同時にカギューちゃんと衿沙のどちらが正しいかまで決まってしまうからだ。
彼女等に影響を受けた者達の戦いを通じて対立構造を深めることで、ついに現れたカギューちゃんと衿沙との最終決戦を盛り上げる。素晴らしい構成だ。

※追記
よく考えると、富江戦と朱羽戦も「現実」と「嘘」の対比構造になってるのか。上手いなー。


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