アニメを中心に、漫画や映画、小説など創作物の感想を載せるブログです。

スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

漫画

GUNSLINGER GIRL 雑感 だから私のためにいてほしい

 「輪るピングドラム」と「GUNSLINGER GIRL」の共通点についてのこじつけ。
 しかしピンドラはすっかり自分の中で一つのスタンダードになってるなぁ(笑)

 2月の頭には構想があったのに書くまでにめっちゃ掛かりました。全然纏まらない。
 昨年完結した「GUNSLINGER GIRL」という漫画作品は
 あのときから彼女たちには未来なんてなく――ただ、きっと何者にもなれないってことだけがはっきりしていたんだから。
 なんてフレーズを当て嵌めても違和感ないくらい「輪るピングドラム」と構造が似てる(個人の見解です)のでそこを軸に語りたいと思います。

 まずは義体の少女たち。
 彼女たちは義体化にあたって過去の記憶を封印されており、さらにその身体・仕事の特性上成長することはなく、また長く生きることもできない。
 「義体には幸せな未来も 思い出せる過去もないんだね」
 自分たちの運命に思い悩むトリエラのこのセリフが彼女たちの境遇を表しています。
 少女の姿のまま大人になることはなく、戦士として戦い遠からず消えてしまう。まさに「何者にもなれない」運命を背負った彼女たち。

 しかしそんな彼女たちにも、少なくとも便宜上は救いが用意されていた。
 それがフラテッロ(兄弟の意)というシステムですね。義体にはそれぞれ担当官と呼ばれる公社の人間が付き、公私に渡るパートナーとして行動を共にする。
 その関係性を「兄弟」と名付けたのは、性的接触を避けるためってのもあるかもしれないけれど、やはり「擬似家族」の関係に置く事で義体の精神安定を図る意図があったんじゃないですかね。「家族」というのはほとんどの人間が生まれながらに所属するコミュニティで、ある意味で最も強い絆の一つ。だから、それが偽物だとしても欺瞞を信じる限りは安定を得られる。
 輪るピングドラムでも家族・親子関係についてはあらゆる側面からクローズアップされており、人々がどうしようもなく強固な繋がりを求めて「家族」に執着する姿が描かれている。特に主人公の高倉兄妹は、終盤に来て誰一人として血の繋がりのない「擬似家族」であることが発覚し、その関係性の解体と再構築の物語が紡がれた。
 「きっと何者にもなれない」少年少女が、それでも人生に意味を見出し幸せになるための方法論として大切な誰かとの絆を手にすることが必要であるという、両作品に通ずるテーマがあることが分かります。

 ガンスリではさらに、物語の後半から少女たちだけでなく担当官や公社の人間である大人たちもまたそれぞれ過去に縛られ「何者にもなれない」呪いを受けていた、という事実が発覚する。
 イタリア南北問題に根ざす社会福祉公社と五共和国派の戦い。その発端となったクローチェ事件によって引き起こされた右翼排斥運動により、理不尽に公職を追放された軍人や警官、研究員が集められ、そしてそこに五共和国派に親しい人間が殺された者が参加し復讐のために創られた非公然組織。それが主人公たちの所属する「公社」の正体である。
 彼らは自分たちを「亡霊」と称している。輪るピングドラムでも自らを「幽霊」と称する渡瀬眞悧というキャラクターが登場しましたね。過去に縛られ今を生きる人物を「亡霊」と呼ぶのは別段珍しい比喩でもないので、これはあくまで共通点の一つですが。
 とにかく、公社の人間は五共和国派を潰すために人生を賭け、その目的を達成しなければ前に進むことはできないという。
 そして、誰よりも復讐の念に身を焦がしているのが本編の主人公であるジャンとジョゼの兄弟だ。彼らは上記のクローチェ事件の当事者であり、テロによって家族を殺され全てを失っている。
 義体と同じ様に、担当官もまた「きっと何者にもなれない」存在である。この構造が何組ものフラテッロを通して様々な形で描かれている点が、私がこの作品にハマッた最大の理由なのではないかと思う次第です。本題はここから。

 
 それぞれのフラテッロの末路がまた、ピンドラを想起させるわけですよ。
 特にジョゼとヘンリエッタの最期なんかは、伏線(というかフラグ?)として機能していたエルザの事件が一方的な心中だったのに対して、互いに了解した上での心中である点に違いがあります。一方的な愛と相互に分かち合う愛との対比はピンドラ全編を通して描かれてきたことであり、あれこそまさにジョゼの罰とエッタの愛を分け合ったシーンと言えるのではないでしょうか。互いの頭に銃を突きつける構図が、歪ながらも一つの「輪」になっているように見えなくもない。え? 無理がある?
 
 しかし私が今回の記事のメインに据えたいのは、ジャンとリコのフラテッロなのです。
 何故かというと、彼らの物語のクライマックスとして描かれたシーンがとてもピンドラチックだったからです。
 クローチェ事件の実行犯であるジャコモとの死闘の果てに、瀕死の重傷を負ったジャン。
もともとジャコモと刺し違えるのが望みとすら言っていたジャンは、復讐を果たしたことに満足しそのまま死のうとする。そんな彼に対して、リコは叫ぶ――
「私のために生きて!!」
 
 泣きながらこの言葉を吐くリコがもうね、たまらんですよ。
 あらためて読み返して分かったんだけど、リコって義体になる以前の境遇から手足が動くだけで幸せなのか、ネガティヴな感情に疎くて仲間のアンジェが死んだ時でさえ「あまり悲しくない」と言うような娘なんですね。
 だからそれまで涙を見せたのはジャンに見放される夢を見た時だけだし、彼に対して何かを要求したことすらない。「条件付け」が余程効いているのか、自分を「復讐のための道具」として扱うジャンを無邪気に慕っています。ただジャンとフラテッロでいるだけで満たされているようで、この点が徹底されているんですよ。なので、ジャンのために初めて涙を流し、「生きろ」と自らの望みを口にしたのは逆説的にそれが彼女にとっての全てだということを表しています。

 話を戻して、ピンドラ18話でもこれと全く同じセリフがあるんですよね。
母親から見放され、こどもブロイラーで透明にされそうになる幼き日の多蕗。そんな彼に救いの手を差し伸べる桃果。ピアノを弾けなくなった自分には、もう生きる理由がないと彼女の手を拒む多蕗に、桃果は「私のために生きて!!」と言い放ちます。

 しかし、セリフは同じながらもそれぞれ結果には大きな隔たりがあるんですね。
 リコの生きろという声に一命を取りとめ、彼女が死んだ後も生き続けたジャン。
 一方多蕗は桃果を失い、再び生きる意味を見失って結局何者にもなれないまま大人になってしまった。なぜ多蕗がああなってしまったのかというと、桃果との間にできた関係が彼女への強い依存心を生んだからなんですね。だから彼女の死によって深い穴が開いてしまった。良くも悪くも、彼にとって桃果の存在は大き過ぎた。
 ジャンは自分の胸の内を全くと言っていいほど語らないので、新たな生きる理由となったリコを失って何を想っているのかは分からない。エピローグで左手薬指に指輪を嵌めていることから、リコを自分の家族として認め、そして死んだ家族のために生き続けることにしたとか、色々考えられそうですよね。少なくとも、彼は空虚に陥らずに生きる道を選んだのは確かでしょう。

 多蕗が桃果に一方的に依存するような関係だったのに対して、ジャンの場合はむしろ彼自身がリコに依存される存在だったという点に両者の違いが表れています。
 「選ばれないことは死ぬこと」とはピンドラの陽毬のセリフですが、ガンスリの義体たちもまた担当官に選ばれることによって生を受けた少女達です。リコは義体の中でも洗脳前の記憶が残っているという点で特異な存在であり、四肢に生涯を負っていたことから両親にすら見向きもされなかったことを憶えています。彼女もまた多蕗と同じく親からの愛を受けることができない子供だった。多蕗が親に支配され、愛を与えられない状態は鳥籠の演出で描かれていたけど、ガンスリでも「鳥籠に還る」というサブタイがあって義体が籠の中の鳥であるという比喩がされてます。まあこれもそんなに珍しい表現ではないですが、関係の類似性の補完としてね。
 で、そんなリコのもとにジャンが現れ、「条件付け」によってか彼からの愛を受け取ることができた。でも、彼女はそれが欺瞞によるものだと分かっていたはずなんですね。そもそもジャン自らリコを自分の復讐の道具だと言っているわけで。それでもジャンがいるだけで彼女は幸せを感じることができた。
 しかし、ジャコモとの最終決戦に臨むジャンは「刺し違えることが望み」と死ぬ意志を顕わにします。それを聞いたリコの複雑な表情も当然、彼がいればそれでいいのに、彼は死のうとしている。だから彼女は「ひとりにしないで」とあの言葉を叫びます。桃果のそれが言わば強者側からの言葉であったのに対して、リコは逆に依存する弱者側からの言葉。だから同じ言葉でも違う響きを持った。言葉は違えど、リコの想いはむしろ苹果の「だから私のためにいてほしい」に近いニュアンスを持っていたのだと思います。
 桃果の言葉に救われた多蕗は彼女の無償の愛に依存する形になったけれど、リコの言葉を受けたジャンは今まで拒んできた彼女の愛を受け入れるという形になった。今まで復讐の道具として見ようと努めてきた彼女を、初めて家族として受け入れることができたのではないでしょうか。

 ジャンが実は情の深い人間であるということは所々で示唆されていましたし、だからこそ強く憎しみに囚われてしまっていた。前を進むためには過去を清算する必要がある。
 彼は過去の呪いを振り切ることで、対象が死んでしまっても消えることのない真実の愛を手にしたのでしょうね。それをもたらしたのが彼が道具として扱い続けた少女である、という構造が美しい。
 過去の清算といえば、ピンドラは物語そのものがそういう話なんだよなぁ。


 他にもピンドラとガンスリの共通点として、敵対勢力としてテロリストが配置されている点や、「地下鉄サリン事件」「イタリア南北問題」と現実との接続が為されている点とかが挙げられているけど、キリがないし語れる知識もないのでやめておきます。
 ピンドラって、ここ15年ほどの社会や人間関係、そして物語作品の解体に完全にではないにしろ成功した作品だから、その期間の作品との繋がりが随所に見られるんですよね。だから結構最近の作品とも容易に絡めて考えられるわけで、それが逆に視野を狭めている可能性が無きにしも非ずだけど、私はこれが楽しいのでこれからもピンドラを一つの基準にして物語を見ていくと思います。だって好きだから。

 とはいえ2作品の比較を中心にやると無駄に長くなる上、言いたいことが散漫になって深く掘り下げることができなかったという印象もあるので今後の反省点として気を付けたいですね。
 ガンスリについては、「記憶」や「日常」をテーマにクラエスの可愛さを語るネタがあるのでまたその内記事を書くと思います。いや、見た目も性格も好みでキャラ単体ではクラエスが一番好きなんですよ。

関連記事
スポンサーサイト
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

ぽんず

Author:ぽんず
私は好きにした、君らも好きにしろ

アニバタ Vol.6アニバタ Vol.9に寄稿しました。よろしくです。


このブログについて

※感想記事はネタバレがデフォです。

当ブログはリンクフリーです。お気軽にどうぞ!
現在相互リンク募集中


twitter
検索フォーム
ランキング
にほんブログ村 アニメブログ アニメ感想へ

アクセス解析
外為どっとコムの特徴
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。