アニメを中心に、漫画や映画、小説など創作物の感想を載せるブログです。

スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

戦姫絶唱シンフォギア

戦姫絶唱シンフォギアG 総評

 これが俺の、絶唱だあああああアアアアアアァァァァァッッ!!!

 去年最もハマッたTVアニメ「戦姫絶唱シンフォギア」の待望の続編。
 発表当時からずっと楽しみにしていたわけで、ついに先日最終回を迎えた今自分なりの総決算としてこの記事を書くことに。
 クッソ長いしもっと推敲しろよってのは分かってるんですけど、いい加減他の記事も書きたいしもう限界なんで許してほしい。

 
 さて、結論から言えば満足とは言い難い出来になったわけですが(笑)
 ともあれ黒歴史という程でもなく魅力的な要素がいくつもあって、だからこそ残念にも感じたり「好き」という気持ちは変わらなかったりします。色々複雑な感情を抱かせる作品になったなーと。

 まず続編としてはかなり誠実な作品に、少なくとも前半は見えました。
 全体的にクオリティが底上げされブラッシュアップされた映像表現、1期の流れを踏襲しつつもその後始末とその先を描こうとするストーリー展開。
 しかし作画が本当に良かったのは前半までで、その後の話数ではどんどん作画監督の人数が増えていき明らかに制作スケジュールがやばいことになってて本編の絵もボロボロに。それでも1期よりよくなってるという人がいましたが、ぶっちゃけアクションシーンに魂かけてた1期よりも2期のそれは出来が悪かったと思います。 動くシーンは動くし、特に若林厚史さんコンテ回は構図もカッコよかったりするんですが、肝心要の歌と映像の共鳴ができてない。1期はそれこそコマ単位で曲展開に合わせた演出で、他のアニメにはないようなアクションシーンを作ることに成功していたんですが、2期はその辺終始さっぱりでした。声優さんのアフレコで歌う演技がとても素晴らしかっただけに、映像がそれに応えられなかったという印象は強くなりますね。
 やはりスケジュールが押し過ぎて、そこまで拘ったシーンが作れなかったのではないかと邪推しています。1期のスタッフすらできていなかったので。下手に全体の作画水準を上げてしまった結果しわ寄せがきた、という考え方も。
 それと関連して、作中でキャラクターが歌うキャラソンもまたあまり印象的なシーンでの使用ができていなかったかなと。例えば1期の『繋いだ手だけが紡ぐもの』とかは1度っきりしか使ってなくても1発で記憶に残るような名シーンを作り出すことに成功していました。2期でも『Rainbow flower』を始めとして印象に残る曲はいくつかありましたが、一方でただノルマ的に流しているだけの場合も少なくなかったように思います。キャラが増えて曲数も倍増した結果、販促要素が(意図の有無に関わらず)大きくなってしまったかなと。『月煌ノ剣』とか完全に12話の『絶刀』に喰われてましたからね。最低限、本来なら一番盛り上がるはずのサビの部分で別シーンに移行したり説明台詞が入ったりするのはやめてほしかったです。

 ストーリーについては、翼さんの夢やクリスちゃんが手に入れた日常など1期の続きとしてきっちりと彼女たちの変化を描いてきているのは好感触、また主人公である立花響の在り方に迫るかのように彼女を追い詰めていく展開には毎週ワクワクさせられていました。
 しかしもう一つの軸である新キャラのマリアたちF.I.S側のドラマが並行して描かれるにつれ、徐々に尺不足やら描写不足やらが目立つ様になり物語の構造に目を向けないと意図の分かりづらい代物に。
 
 シンフォギアは元々、「勢いだけ」と揶揄もされるようにぶっ飛んだ演出や大味なストーリー展開が目立つ作品ですが、一方で丁寧なキャラクター描写の積み上げで成長を演出したり、以前の描写との対比を盛り込んだり、キャラの言動や歌に意味付けをすることで熱いドラマを構成することに成功しています。何も考えずに見ても楽しめるのは間違いないですが、一方で読み込みにも応えてくれる作風が本作の魅力なのです。
 意味付けによってロジックを通すことによって、展開や流れが強引でもある程度は「シンフォギアだから」で好意的に受け止められる(もちろん人によって許容範囲に差はあるでしょう)ピーキーながらも奇跡的なバランスで成立していた本作ですが、2期に関してはこのバランスが崩壊気味だったのは否めないかなと。
 
 シンフォギアGはそもそもの構成がトリッキー。
 響とマリアが中央で激突する構図のキービジュアルや、3人と3人という敵味方に分かれた装者というキャラ配置から、当然響たちがライバルと対立しつつ進行する物語が期待されていました。しかし実態は逆で、そもそも同じガングニールの持ち主でありながら響とマリアは相対しないし、他のキャラにしたって描かれるのは身内との話ばかり。
 私はこれを「対立なき対比」とかそんな感じで考えていますが、つまりこれは各陣営をぶつけずに状況の推移だけで対比していくという構造になっていたのだと思います。
 自身の胸に抱えた爆弾から己の戦いとそれに伴う結果に向き合わざるを得なくなり「戦うこと」を自分の存在価値として目的化してしまった響。
 世界を救うという使命を背負い、そのためにマムやセレナ、フィーネにウェル博士という他者の名と手段を借りて自分を偽り続けたマリア。
 この2人の苦悩を軸に、クリスちゃんも贖罪のために手に入れた場所を捨てようとしたり、切歌は自分の意識が消えてしまうのを恐れるあまり自分を見失ったりで仲間との絆に綻びを生じさせます。バラバラになるそれぞれの陣営を繋ぎ止める役割を果たしたのが翼さんと調という不器用そうな2人、という構図かな。
 なぜこういった構造になったかと言うと、本作の「歌で人は繋がれる」というテーゼへのカウンターとしての「背中合わせ 違う雲を見てる」。たとえ仲間同士でも想いは一つとは限らないし、すれ違いも当然に起こるというのを描いてるんですね。だから最終決戦前に描かれるのは敵との対決ではなく内輪揉めなわけです。
 ただ、ここで一つ構成上の難があって、この作品で最も強い絆を持った響と未来の対決を先にやってしまったものだから、その後の「翼さんVSクリスちゃん」「調VS切歌」が相対的にシチュエーションとして弱くなってしまう。描写においてもひびみくに比べて他の2組は積み上げが足りないですし、10話の熱量は明らかに本作トップクラスでしたからね。
 ともあれ、すれ違いの解消のためにお互いが一度全力でぶつかり合うという少年漫画的な手法を取っているのがこの作品らしいのですが若干流れが強引過ぎるのと積み上げ不足が祟って十分なカタルシスを得られなかったように思います。この辺はまた後で。

 話を戻して、「人と手を繋ぐこと」は本作のテーマであり、そして主人公響にとっての「戦い」そのものでもあります。ところが今回、調に「偽善」と罵られたことを皮切りに、次々と彼女の身に過酷な運命が降りかかります。
 そして発覚した、かつてツヴァイウイングのライブの惨劇で生き残った響が家族を安心させようとリハビリを頑張ったのが裏目に出て大衆の浅薄な悪意に晒されたという過去。
 この辺解釈が分かれると思うんですが、この過去はあくまで響が自身が人の為にと思って為した行動が人を傷付けるかもしれないという、「人助け」のアンチテーゼとして提示された情報だったと私は考えています。これが原因で響が「前向きな自殺衝動」とも称されるある種の歪みを抱えてしまったのではと考える向きもありますが、1期8話で「惨劇を生き残った負い目なんかじゃないッ!」と断言して迷いを一度振り切っている以上、それを今更否定はしないだろうと。
 以前も書きましたが、響の動機の話はもう1期で終わっていて行使する力によって生じるコンフリクトの話にシフトしていたんじゃないかと思います。流れを追うと、まず響が今まで人と手を繋ぐことの象徴として描かれてきた「左手」をネフィリムに捕食させて一度喪失させることで彼女のアイデンティティを揺さぶる展開を示唆。その後あっさりと腕が復活したと思ったら、今度は胸の中のガングニールが身体を侵食して命の危険が発覚。それでも何かあれば迷わずに走り出してしまう響のヒーローとしての資質を描き、しかし周りの人間は彼女を失いたくないので彼女に戦って欲しくないと願うようになる。
 ここで浮き彫りにされた響の歪みは、自身の命の危険を知ってもその身を省みることよりもアイデンティティの崩壊への憂慮が先行している点にあります。

「戦えない私って、誰からも必要とされない私なのかな」

 「人助け」のために力を振るっていたはずが、いつの間にか戦うことそのものに意義を置くようになっていた、手段と目的の逆転。
  響が戦えば戦うほど周りの人は苦しみ、ついにはそれが原因で仲間内での不和を生じさせてしまいます。そして最終的には「日常」の象徴であり響にとっての陽だまりであった未来が敵として戦場に立つという最悪の事態に。しかしその際、未来を救うとやはり戦場に向かう響は、ここで始めて生きて帰ると「生きるのを諦めない」意志を表明。そして戦う力であるガングニールを一度喪失し、「ただの立花響」として戦えなくても意味より先に胸の歌を信じて走り出す姿を描くことで、真の適合者として生まれ変わります。
 偽善云々の問答に関してはそもそも調が何を指して言ってるのかもそれに対する回答もよく分かりませんし、ぶっちゃけあんまし描けてないのでスルーで(笑)
 

 そして響を中心とした特務2課の物語と並行して描かれたのは、もう一人の主人公であるF.I.Sのマリアの物語。
 ある日突然力を手に入れ迷わず戦場へ赴くバトルヒロインの性質を歪なものとして描いてきた響とは対照的に、覚悟を持って明確な目的のために戦っていたはずがどこまで行っても弱さや脆さを克服できない「ただのやさしい少女」として描かれたのがマリア・カデンツァヴナ・イヴというキャラクターでしょう。最低でも19歳で装者最高齢である彼女を少女と呼ぶにはちょっと抵抗もありますが、幼い頃から施設暮らしで寄る辺となっていた妹も亡くしていた彼女の自主性のなさ、他者への依存心の強さを見ると、精神的には誰よりも少女らしかったのかもしれません。
 当初は私も黒いガングニールの持ち主として響のライバルになる存在だと思ってましたし、悩みながらも悪役もしくはダークヒーローとして大成してくれるものだと期待していました。
 しかし「偽善」と称される響の対立存在としては彼女の言動は「偽悪」すら貫けておらず(そう努めようとはしていた)、ただの「偽り」の存在でしかなかった。それを象徴するのが黒いガングニールであり、自らの心を覆い隠すようなマントが槍以上に目立って描かれていたように想います。
 彼女の戦闘曲である『烈槍・ガングニール』はやはり覚悟を歌ったものですが、その勇壮な曲調や自らを鼓舞するかのような歌い方からこれも彼女の「虚栄」を支えるファクターだったのでしょう。偽りの歌だったからこそ、12話で人々に呼び掛けた時も誰にも応えてもらえなかった(必死さは伝わっていた様子)。
 マリアの覚悟の無さ自体は1話から既に描かれており、2話で翼さんの覚悟を問うたのも自身へのカウンターとなっています。おまけにサブタイトルは「胸に覚悟と偽りを」。
 何故自身を偽る必要があったのかというと、月の落下がもたらす災厄から人類を救うためには時間も足りず手段を選ぶ余裕もなかったために彼女の本質である「やさしさ」を捨てる必要があったからですね。実際に8話で一度覚悟を改めたマリアは吐血するマムからも目を逸らして必要の無い犠牲を出すやり方を黙認していますが、やはり偽りの決意はすぐに揺らぎます。そして苦しむマリアを見て調が離反、F.I.Sの装者もバラバラになるという構図でやはり2課の物語とリンクしてるのが分かりますね。
 そもそもマリアを指して言われる「やさしさ」というのは通常想起される「強さ」としての側面よりも、「弱さ」や「甘さ」といった言葉に置き換え可能な性質を持ったものとして描かれていたように思います。しかしだからこそ、常にマリアは調や切歌曰く「いつも弱い人たちの味方」でいられたんだと思います。LiNKER使用のインチキ適合者であり、偽りの覚悟を構えフィーネを騙って自らを「嘘」で塗り固めたマリアは、どこまでいっても最後まで「ただのやさしいマリア」でしかなかった。でもそんな彼女だからこそ、世界中の共感を集めることができる。
 何物にも縛られない、心のままの彼女の歌が世界中に響き伝えられていたことは1話の描写から分かりますし、だからこそ心を鎧っていたガングニールを剥がされ生まれたままの感情を歌った歌が奇跡を起こしたんですね。
 本当にヘタレで弱くて、最後の最後までセレナとマムに支えられなければ立ち上がれもしない小娘だったけれど、そんなマリアさんが今はとても愛おしいです。

 話は前後して、ラスト前の12話でついに今まで徹底的に避けられてきた響とマリアの邂逅が描かれるわけですが、まさにそれは1期1話で響が奏との鮮烈な邂逅を果たした再現。
 ヒーローが「ただの少女」を助けるという、クラシックな一場面が反復されるのはまさに受け継ぐ物語の真骨頂と言えるでしょう。まあだからこそ、「胸の歌を信じて動けば生きる意味なんて後からついて来る」という響の生き様に影響された形でマリアの再生を描いて欲しかったんですが、セレナとマムに取られちゃったからなぁ。
 ただ、ラストでガングニールを返そうとする響に対してそれを自分には相応しくないとして譲り、「君と出逢えてよかった」と吹っ切れたような笑みで言う顔がすごく感慨深くて、もうそれだけで全部許せる気分になれます。最終話、何度も見直してる内にあのシーンが一番好きになってたり(笑)
 流れるように最終決戦に入っちゃったんで若干食い合わせは悪いけど、マリア・カデンツァヴナ・イヴの人生はまだスタートラインに立ったばかりで、彼女の贖罪もまたここから始まるのだと疑いなく思えるようなラストでした。

 そうそう、2課とF.I.Sの対比として忘れてはならないのが大人の描写。常に装者たちの戦いをサポートし、その覚悟を支え続けてきたOTONAがいるのが2課ですね。緒川さんがクローズアップされたことといい、装者と2課の連携の描写も増えています。司令曰く、「子供のやりたい事を支えてやれない大人なんて、カッコ悪くて適わないんだよ」
 一方のF.I.S側はマムことナスターシャ教授が装者たちと強い絆で結ばれた存在として描かれていますが、しかし彼女は目的のために「やさしさを捨てねばならない」と言い聞かせます。中盤でそれが間違いだったと気付くのですが、それでもやはり彼女はマリアに指示を出し続け、それがマリアを苦しめ続けるんですね。
 最後の最後にナスターシャ自身が月の落下阻止という使命を引き受けることで、マリアを縛る鎖から彼女を解放します。彼女もまた、OTONAとして成長を果たし、OTONAとして全ての責任を取る形で命と引き換えに当初の使命を全うしてみせたんですね。自己犠牲的な行動はともすれば英雄的でテーマに反するようだけど、奏が「生きるのを諦めるなッ!」という言葉を残して散っていったように、シンフォギアの「生きる」には自分の想いを残し伝えていくという意味合いもあるのでマリアの物語ともしっかりと連動していると思います。


 響とマリア、2人の物語からこの作品では唯一「胸の歌を信じて行動する」ことが正解とされています。実は本作で最も揺るがず目的のために邁進し続けていたのは悪役を1人で引き受けたと言っていいウェル博士なんですよね。目的のために手段を選ばないというのはF.I.Sの方針であったのだけれど、実際それを体現できていたのは彼だけ。彼の行動は「人々を救いたい」という意志とはかけ離れ、ともすれば己の快楽のためですらあるのだけれど、彼が自分に嘘を吐いていないことだけは確かで、だからこそ彼はあらゆる障害を突破し物語の原動力とさえ言えるほどのパワーで目的に近付いていくのです。
 もう一つ、この作品の根底に流れているのが「禍転じて福となす」メソッド。即ち物事は善と悪どちらにも転び得るし、そこに選択の正否は関係しないという物語のルールです。たとえば「人だけを殺す」目的で何度も振るわれたソロモンの杖が最終回でクリスちゃんの意志によって人々を救う鍵に転じた描写。あるいは未来の想いが願いとは裏腹に響を戦場に駆り出してしまったが、しかし結果的に彼女を救うことになった展開。ウェル博士の行動だって、余計な災厄を招いてはいるものの結局は当初の月の落下の阻止という目的を超えてノイズ問題の解決という人類救済の結果にさえ繋がっています。このメソッドは、1期の頃から一貫して描かれていたりします。
 自分の行いが必ずしも正しい結果を招くとは限らないからこそ、結局は「胸の歌を信じる」以外答えはないという形で上記のテーゼに繋がりますし、それが響を悩ませた「自分が頑張ることで誰かを傷付けることになる」という命題への答にもなっているわけです。そして少しでも良い結果を繋げるための唯一の方法として、あらためて「手を繋ぐ」という行為がクローズアップされるのですね。ウェル博士が最後の最後に頓挫したのも、誰とも手を繋ぐことができなかったから。個人的には響がウェル博士とも手を繋ぐことを期待していたので、OTONAに彼の処遇が任されてしまったのは残念ですが、大人の始末はOTONAが付けるってのも分かるから複雑です。ちなみにウェル博士を「悪魔にも英雄にもしない」というのは、響の「英雄でない私」の逆説としての描きですね。響もウェル博士も、ただの人間。
 話を戻して、手を繋ぐことで因果を善の方向へ傾けることができる。そして最終話で世界中を繋いだのが言葉よりも強く繋がれる「歌」であったという構図です。
 ちょっと「世界」の扱いが都合良過ぎるので、これはやはりあの場限りの奇跡で可能性の提示ですね。遥か彼方、星が音楽となった…かの日。本来なら1人1人手を繋ぐだけでも精一杯だけれど、「今、ここ」で手を繋いで輪を広げていけばきっと。
 実際「歌」はバカにしたもんじゃないですよ。言葉が通じなくともメロディーは伝わりますし、歌詞が分からなくてもそれで一緒に盛り上がれたりします(経験談)。


 とまあ、こんな具合にロジックはわりと通っているのですが、肝心のドラマ部分が面白かったかというとそうでもないのが(笑)
 実際私はキャラの配置とか対比とか物語構造とか考えてるだけでも本当に毎回楽しかったですが、一方でやはり描写積み上げカタルシスの不足は感じていました。
 2課とF.I.Sを対立させないという構図はすごい面白いんだけど、だからこそそれぞれのドラマ部分をしっかり練らなければならなかったんですよね。シナリオを書いた金子さんは脚本上の不安から装者を増やすのには反対だったそうで、実際その通りでしたがもっとやりようはあったと思います。過去回想をやらないと決め撃ちしたのも痛かったし、特に切歌が9話から12話までほとんど同じ事を繰り替えし言ってるだけなのは、こう、どうにかならなかったのかと切実に思います(笑)
 過去をほとんど描かないというのは、たとえばもう既に1期分のバックボーンがある響なら最低限の描写でも有りですが、もともと積み上げの無いマリアたちの絆を示すためには必要だったのではないかと思います。
 尺がないと言っても、たとえば毎回必ず戦闘シーンを入れるという決まりを破れば可能だったと思いますし、作画リソースにも余裕が出たはずです。まあただでさえ少ない尺の中に1期の倍以上のキャラソンを捻じ込むという、悪く言えば大人の事情があった以上兼ね合いが難しかったとは思いますが。そういう「シンフォギアらしさ」の踏襲に拘ってるわりには、肝心要の歌と映像の融合が出来てないんだよなぁ(まだ言う)。
 この2期は全体的に見て、作品としても物語としても、1期を礎にしていると同時に既にある土壌が一種の制約になってしまっていた部分もあると思います。結局アニメーションとしてのブレイクスルーはなかったかなぁ。
 
 まあ客観的(笑)に評価しようとすればこんな感じになりますが、シンフォギアが好きな気持ちは揺らぎません。
 響は最高にカッコイイ主人公だし、翼さんは揺るぎないSAKIMORIで先輩だし、クリスちゃんはあらゆる表情が天使だし、未来さんは誰よりも弱くて誰よりも強いし、調はガキで視野が狭いけど仲間のことは誰よりもよく見えてるし、切歌は自意識過剰の勘違いバカワイイし、マリアさんはもうとにかく大好きです。
 最後に、スタッフの皆さん、最高に楽しい時間をどうもありがとう。出逢えてよかった…。・゚・(ح≧Д≦)ح・゚・。


関連記事
スポンサーサイト
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment form













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

ぽんず

Author:ぽんず
私は好きにした、君らも好きにしろ

アニバタ Vol.6アニバタ Vol.9に寄稿しました。よろしくです。


このブログについて

※感想記事はネタバレがデフォです。

当ブログはリンクフリーです。お気軽にどうぞ!
現在相互リンク募集中


twitter
検索フォーム
ランキング
にほんブログ村 アニメブログ アニメ感想へ

アクセス解析
外為どっとコムの特徴
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。