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キャプテン・アース

キャプテン・アース 23話 「真夏の夜の夢」 感想

 本当は約束なんてない。ただ、行かなきゃいけないような気がしたんだ。

 ついに来ましたよ、1話を越える傑作回。今年度ベストエピソード候補です。
 もっとも、今回は1話、ひいては今までの物語があってこそ、なのですけど。

 夢とは、過去の切り貼りであり、可能性の残滓であり、未来の予兆でもある。
 今回のエピソードはこの『夢の中』の描写が秀逸で、そこにいた記憶はあるのにそこにいないはずの人物がいる、次々と違う場面に放り出される不条理感、そこかしこで発生するデジャヴ、確かな違和感を持ちつつも確信を持つには至らない世界がダイチの体験に見事に現れていました。

 夢の中で、ダイチの前に現れる遊星歯車装置。
 前回「ネオテニーを仲間にすれば都合がいい」とは言ってましたが、まさかこういった形で介入してくるとは。友達面をするアマラさんには笑いを抑え切れませんでした。
 おそらくはライブラスターの力を欲して誘惑しているのでしょうが、多分彼らの仲間になってしまったらその瞬間にダイチはネオテニーではなくなるんですよね。なぜ彼らがその事を理解できないのか、というのは今回のダイチとの対比を見るまでもなく散々描かれてきたことですが、彼らの中でも明確なスタンスの違いが見えてきている以上、それを知る時も近いはず。というか、もう終盤だし。

 しかし、こうしてあらためて1話冒頭のダイチを見ていると、むしろこれまでの物語こそが一夏の夢のようなものであると感じます。夢の中で現実的な憂いを見せるダイチを見せることで、実はあの日々こそが真夏の夜の夢だったのではないか、という入れ子構造があるのかもしれません。実際、目覚めから始まり、「夢を見ていたような」と発言させていますからね。
 「今の自分が、どこか間違っているような気がする」とは、1話そのままの台詞ですが、こうして聞くと今までの物語で語られた「本当の自分」問題に直結するモノローグだったということが分かります。ただ学生としての役割を求められ、それが自分のやりたい事と剥離している時、漫然とした違和感に襲われる。はっきりとした目標があるわけでもないけれど、何かが違っている。ただしっくりこないという、日常における倦怠感としてのモラトリアム。
 つまる所それは、「自分が選んだ未来」じゃないから、という事なんですね。

 さて、そんなダイチを享楽へと誘う遊星歯車装置。
 とは言っても、当然彼らは一枚岩ではないので誰もが誘惑するわけではありません。
 バクは陸上部のキャプテン候補だったのになぜ辞めるのかと追及します。主将としてのキャプテン、ダイチはまさに今キャプテンと呼ばれていますが、陸上部のキャプテンにはならなかった。それもまた、前述した違和感が素なんでしょう。
 このシーン、バクの背後にある花屋(=ハナ)を遊星歯車装置の面々が覆い隠していく構図が地味に面白いです。
 夢は覚めたら終わり、人生は死んだら終わり。死人が生き続ける夢を見ていたバクには、もう何も残っていない。話は前後しますが、対するダイチは人が死んでも残るものがあるのだと言う。今まで一度も父親への想いを抱きつつも口にはしなかったダイチがここでようやく、というのは感慨深いですね。バクもまた、クミコから「本当の光が見える生き方をしてね」という言葉を残されているので、それを理解することができればきっと救われるのではないかと思います。
 縁日へ向かうためバスに乗るダイチ。隣に座るのはセツナ。
 何気にこの二人、初の邂逅ですね。死んだ毬村博士への愛憎入り混じった感情を見せるセツナ。しかしその憎しみは、他人を利用し搾取せねば生きられないキルトガングの生態への自己言及にと至ります。ダイチが助け合いという人と人との関わりを、セツナは奪い合いとしてしか実感し得ない。人と関わるのは傷付くから怖い、というのは彼女の覚醒前の台詞ですが、今だってリビドーを集めるために言い様に利用され、ひいては自身でさえ人間のリビドーを奪っている。このジレンマを自覚し、苦しんでいる彼女は、アルビオンがエゴブロックを破壊したことで人間になった、つまりは生き方を変える術があることをもう知っているんですよね。
 でも、セツナは「多分まだその方向へは行かない」。なぜなら、彼女が自分はダイチと同じだと言ったように、たとえ主導権を握っているのがアマラだとしてもキルトガングの王としてやるべき事があるからなのでしょう。ダイチがキャプテンとして地球の命運を背負ったように、セツナもまた王である課せられた責務がある。ただ、「まだ」と言ったからには彼女にも生き方を変える明確な意志があるということであり、来る最終決戦にて何らかのけじめを着ける腹積もりであるのは想像に難くありません。そしてその時が来たら、きっとラッパは彼女の下へ帰って来るのでしょう。
 彼らが乗ったバスを止めるのはリン。壊れたバイクは彼女が捨てたことを示すのか、あるいは失ったという暗喩なのか。正直リンが一番心情を読み辛いキャラクターなのですが、一つ言うとすれば、彼女が「風」を感じられなくなったのは「死なない完全な人間」になったからだと思うんですね。死と隣り合わせにあったからこそ、生死の狭間、その臨界に近付くスリルがあって、彼女はそれをずっと追い求めていたんじゃないかなー、と思います。永遠の命を手にすると、刹那的な感傷を失う、というロジックで本作に一貫する有限と無限の対比に組み込めるのかもしれません。

 一方、真面目に勧誘活動を行なうのはアマラ、モコ、ジン、アイの4人。
 この面子は、今までも積極的に地球侵攻に加担していたメンバーで、そんな彼らがシンプルにダイチを享楽に誘う、というのは何とも示唆的ですね。ここにも計算を感じます。
 アイが己の肉体を利用した即物的な欲望をくすぐるのに対し、ジンはどちらかというと精神的充足に訴えかける、というのはそれぞれのキャラクターの性格を表していて面白い。
 そして素晴らしいのが、遊星歯車装置の誘惑をダイチが1話で体験した現実をそのままなぞったものにすることによって、今まで描かれてきた「永遠の生命」が持つアンビバレンツというある種の思考実験的側面が強かったSF的な命題を現代の人間に共通するアノミー的な問題(使い方合ってる?)に接続してしまった点ですね。正確には、今までもずっと描かれてきたけど、その構図が今回のエピソードではっきりと表出した、という感じかな。これ、めちゃくちゃ凄い構成だと思うんですが、どうでしょう。
 物質的に豊かになり、以前に比べれば格段に自由で、選択の幅も広がった人間社会。それに応じて欲望が肥大化すると、逆にそれに対する不安や焦燥などが起こる。というのが私のアノミーに対する雑な理解なのですが、違ってたらツッコんで下さい。所詮ウィキのページに載ってる程度のアレです。
 この作品において、永遠の生命とはそのままただ無制限に欲望を消費し続けなければならない存在、となっているのですね。人間のリビドーを喰らう、という設定を鑑みればまんまです。多分、本作がテーマの一つにしているというエネルギー問題は地球の資源というよりは人間の欲望と精神の剥離性を表しているものだと思います。
 ダイチが感じていた違和感も、無数の可能性がある人生の中で、学校の規則や通念常識によって出口が狭められ、その中で漫然と過ごしている日々がしっくりこないというものですね。友人の、そしてアマラの別荘への誘いは「とにかく楽しもう」というもので、実際にもしアルビオンの虹を見ていなければダイチは納得しないまでも付いて行き、それなりに楽しく過ごし、もしかしたら同級生の女の子とどうにかなっていたかもしれません。そして適当にモラトリアムをやり過ごして大人になっていたでしょう。
 それ自体は決して悪いことではないけれど、それはダイチが自分の意志で選択した未来ではありません。「選ばない未来は存在しない」とジンは言いますが、実際に彼らに誘われてたどり着いた未来は「選ばされた」あるいは「流された」未来であって自分の意志で選んだとは言えないでしょう。逆に言えば、良し悪しに関係なく自分で選びさえすればその未来が肯定される物語。

 今回のエピソードは、「ダイチが選択をする」話ではなく、「選択した結果ここにいるダイチ」を描いたもの。それが描かれているのが、直感に導かれ、縁日に行き神社の前でピッツと出会いハナの事を思い出す一連のシーン。ここの説明の無さは1話の「君はキャプテンなのか」以上のキレがあってシビレます。ダイチは決してハナとの約束を思い出したから縁日に行ったんじゃない。ただ「そうしなきゃいけない」と思って行動した結果、その理由を思い出すんです。あの時の直感、それによって行った選択の意味が後から理解る。たまたまアルビオンの虹を見たからこそ、ミッドサマーズナイツのキャプテンであるダイチが存在するわけで、でも彼の今が偶然の産物かというとそうじゃない。
 偶然を必然に、それを為すのが自分の意志による選択、つまりは決断なのです。「本当の自分」とは、自分自身で定義した在るべき姿。
 それが集約されるのが、超絶名シーンである射的の件。ここ、入野さんの自然な演技が上手すぎて本当にダイチの声優が彼で良かったと思います。
 右手を見て「自分の右手」と考えないように、その手にある銃も「銃と自分」とは考えない。両方揃って自分である。
 「銃」は、引き金を引くガジェット、つまりは決断を表すモチーフであり、いくつもの選択を積み重ねた上に立脚する自分こそが揺るぎの無い今を象っているのだということですね。これからの希望を見据え、これまでの選択を肯定し、いまここにいる自身を定義することで、重ねられた偶然は今のための必然へと変わる。
 それこそが飽くなき欲望を貪る永遠のユートピアにありながら、決して満たされない刹那的な人生を繰り返す魂の牢獄を抜け出し生き抜く術なのです。

 パックのイライラと、ダイチのワクワク。
 未知のものに対する二人の価値観の対比は、そのまま永遠の生命と不完全な人間の世界に対するスタンスを表しています。
 永遠を生きるパックにとっては、世界はただ消費し続けるものでしかなく、最終的にはすべてが自分の手の平の上にあるものだという傲慢な考えにたどり着く。
 一方でダイチが何が起こるか分からない未来を楽観的に受け止めるのは、彼が「明日が今日よりも素晴らしいと思える」希望を持っているから。
 永遠は不変であるがゆえに、死ぬことはなくても希望が生まれることがない。失われるから尊い、有限の生命を力強く肯定する人間賛歌。正直ここまで考えると日々娯楽を消費し続けるだけの人生を送っている自身を省みることになって今ちょっと辛いんですが、せめて「何を消費するか」「どう消費するか」だけでも自分で選ぶことを忘れないようにしたいです。
 
 
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