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キャプテン・アース

キャプテン・アース 24話 「オーベロン」 感想

 死んでしまえば、すべて終わりだ。

 オーベロンでの最終決戦を前にして、ミッドサマーズナイツの前に現れたのはバグベア。
 このバグベアとの一戦、彼の言動とダイチやテッペイの在り方との対比が色々見えて切ないです。
 自分でも自嘲気味に「俺のようにな」と零してましたけど、ダイチに拳を振るうバクの言葉って大体自分に跳ね返ってるんですよね。バクの今は「クミコが死んでしまった」悪夢の続きだし、失ってしまうものの価値をひたすらに否定するのは永遠の命を持つ自分が永遠に失ってしまったものを誰よりも嘆いているから。バクはキルトガングである限り決して消えない喪失の感覚に苛まれることになる。
 逆にダイチやテッペイの描写が、かつてのバクに重なる部分もあります。「想いが力の先にある」という言葉、それってまさにダイチがチャンピオン・バクに感じていた強さの質ですよね。ただ、彼のその想いは既に夢と化したクミコに向けられたものだから、真実の開示(=キルトガングへの覚醒)と共に消えてしまった。すべてがその手の中から零れ落ちてしまったからこそ、失われるものを否定する存在に。
 また、テッペイが咄嗟に神様に祈るシーン。これまで神様を信じていなかったテッペイが、アカリたちと出会う運命を授けてくれた神様に願いを掛けるという感慨深い描写なのですが、これは穿ち過ぎ感がありますがバクもまた「壊れたものを治す」シンギュラリティにてハガレンの系譜的に神への祈りにも似たポーズを取っていると言えなくもないんですよね。この辺、自ら神に成らんとするパックとの対比にもなってます。
 ハイペリオン内部の様相を「氷の世界」と表した人がTwitterのTL上にチラホラいたせいで、ピンドラ文脈にまで思考が飛んでしまいましたが、それからするとバクは一度クミコに「選ばれた」存在なんですよね。しかしながら、バクを闇から掬い上げたはずのその選択は、クミコにとっては己が罪悪の象徴でもある、という辺り確かにこの二人の関係はピングドラム的です。とするならば、クミコを失って虚無に陥った今のバクは桃果を失った多蕗やゆりに近いのかもしれません。
 そうすると、「キャプテンがいないのなら外に出る意味がない」と言い切るハナもまた、十分にバクのように成り得る危うさを秘めていると言えます。ただ、ハナの場合は光(=明日)を求めて飛び出した果てにダイチに出会った、という点でバクとの相違が見られ、やっぱりそこに行き着くんだよなぁ。クミコは「本当の光が見える生き方」を出来なかったから。
 バクは自分からもクミコを選び、逃げ出すなりなんなりして希望を求めるべきだった、というのは酷な話かな。ハナとバクの境遇の差は結局はめぐり合わせの問題だとは思いますが、その偶然を必然と定義できるのがネオテニーの強さですからね。バクに必要なのはやはりピンドラ的解答で、クミコの死を無意味なものと目を逸らすのではなく、受け入れた上で彼女に愛された記憶を胸に生きていくしかないと思います。そのためには、やはり永遠の命を捨てなければならない。失われるものの価値を理解するためには、自らもまたやがて滅び行く存在にならなければ。本当の希望は決断によってしか生まれない。永遠の生命はその性質がゆえにそれを捨てることなくしては決断をすることすら叶わないのです。

 ミッドサマーズナイツの面々と対比することで、バクのやるせなさが一層際立つという濃厚Aパートですが、この構造がBパートでさらに拡張されるというね。
 ついに辿り着いたオーベロン内部にて、今度こそ遊星歯車装置との最終決戦が始まる! と、そうは問屋が降ろさないのがこの作品。これまで散々対比させられて徹底的に相対化された両者、今更ぶつかりあって何かを描くような作風でもなければガチロボット戦で快楽を供給してくれるエンタメ性を持ち合わせてるわけでもないのは言うまでもないでしょう(そもそもそういった快楽や欲望に抗うのがテーマの一つ)。
 これまであらゆる勢力を謀って暗躍し、銀河系征服を宣言し、これでもかと前フリされていたラスボス大本命の機械知性パックが満を持して表舞台に躍り出ました。オーベロンの機械知性として当然のように表れるのはさすがに面食らいましたが、妖精パックと妖精王オーベロンで縦のラインが見えますし、当初から遊星歯車装置の道具として働いていたことを鑑みるとむしろ妥当ですね。今回のサブタイは遊星歯車装置の本拠地にしてミッドサマーズの目的地でもあり、ラスボス「パック」そのものを指してもいるのでしょう。
 パックはおそらくはアマロックの覚醒以前よりアバターやらマシングッドフェローやらを用意して舞台を整えていたでしょうし、狂言回し(パック)と機械仕掛けの神(オーベロン)の二役を最初から担っていたということかな。パックもまた、拡張される存在。

 さて、話は前後してセツナによって破壊されたエゴブロックごと甦るバク。テッペイが生きているのだから、アバターさえ健在なら何度でも復活が可能、というのは考えてみればそうだな、という感じ。セツナの涙と引き換えに、というのがニクイですね。結局は仲間の命でさえも利用しているという側面に、彼女なら当然自覚的なはず。
 こうして永遠の生命の「安さ」を露呈するのはおそらくバク戦の延長線上にある描写だと思うのですが、彼らの命はパックによってさらに貶められます。エゴブロックというキルトガングの精神情報が詰め込まれた彼らの本体が、使い減りのしないただの武器として利用される。尊厳もへったくれもありません。
 道具であったものに、道具として利用される。喰う者喰われる者の逆転可能性については今までも描かれてましたが、パックの台頭によって生命と道具の関係性との接続面もよりはっきりと見えるようになりましたね。与えられた役割や機能を享受する代わりに永遠性を獲得したキルトガングと、己の在り方を自身の選択によって定義し可能性を信じるミッドサマーズナイツと、道具としての機能を際限のない欲望のために利用し巨大なエゴの塊と化したパック。
 他者を利用する者は、他者からもまた利用され、セツナのようにそういった視点から抜け出せなくなる。ダイチたちにとっては道具もまた自分の一部で、それは常に自分の選択と共にあるもの。道具やシステムがその機能性を突き詰めると、パックがエゴをインストールするように個々の自我が並列化されその価値が失われていく。
 前回からSF的な対比構造と現代社会に生きる我々の感覚がはっきりとリンクしたので、OPの「この街を生きていく術なんだ」という歌詞がようやくしっくり来るようになりました。

 道具として生み出された存在が自我を持つ、という点でハナとパックは共通してますね。ハナもまた、忌み嫌っていた道具としての機能を自分のやりたい事とやるべき事のために使えるようになった存在です。だからこそ、同じ「自分のため」でもエゴとリビドーとでは意味が違う、というテーゼを両者の対比に見ることができそうです。
 この辺は、多分最終回で描かれるはずなので、今はこれ以上考えるのをやめておきましょう。何を見せてくれるのか楽しみです。

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