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キャプテン・アース

キャプテン・アース 最終話 「キャプテン・アース」 感想

 僕は、キャプテン・アースだからな!


 ついにその本性を表し、巨大なエゴブロックと化した機械知性パック。
 セツナはそれを見て「醜い塊」と表します。自らもエゴブロックを本体としているにも関わらず。この、己でも仲間でもなく、もはや異形と化した自我の在り様を見ることでその実態に気付かされる、という構図がこの1話に凝縮されています。
 「このままではアイツにこの銀河が飲み込まれてしまう」というのは、己が永遠の生命のため星を食い潰してきたキルトガングと実質的には同じなのですけど、セツナは地球人として生き銀河の絶対支配者を名乗りだしたパックの姿を目の当たりにして初めて自分たちも「エゴの肥大化した化け物」だと自覚できたんですね。
 いや自分たちのやってることが「そういうこと」であることぐらい普通分かるだろ、と思われるかもしれませんが、パックの思想がキルトガングのエゴを純化したものであるように、「完全な人間」を名乗るキルトガングの生態もまた人類が持つ欲望を加速させた結果先鋭化されものなのです。人類の文明がこの星の資源を食い潰し、その手はいずれ銀河系に伸びるかもしれない、と理屈としては分かっていても自覚を持つまでには中々至らないものでしょう? 消費は生命や種が存続する上で避けられない業であり、人類が抱える「エネルギー問題」をExpand(拡張)していった先にキルトガングやパックといった存在が少し傾いた映し鏡として配置されているのですね。実にSFです。
 
 「生命がなくとも欲望があればエゴブロックは存在できる」。
 今まであらゆる対比や暗喩や反復を駆使して描いてきた「永遠の生命」の行き着く先が「もはや生命ではない」というのはかなり辛辣だなぁ(笑) なにせこの「永遠の生命」、当初はSF命題に過ぎなかったのに今や現代人の生き方にまで接続されてますからね。
 楽しいこともあるけれど、裏切りもある人間社会から自我の中へと閉じこもることで空虚な優越感と選民意識を手にした遊星歯車装置。彼らのエゴブロックはオーベロン内部のコクーン、つまりは繭に包まれ永遠の夢を見る。
 自分たちこそが「本当の人間」だと信じて疑わない。他者は利用するかされるかの存在でしかない。欲望の赴くままにただそこにあるものを「消費」し続ける。自分の狭量な価値観に当て嵌めて他者を語り、思い通りにならないものは排除する。それは確実に「生命」を磨耗させる生き方だ。未成熟の永遠を手にした代わりに失ったもの。それを象徴するのが、彼らには決して撃てないライブラスターですね。
 ここからちょっと穿ち過ぎでなに言ってんだお前案件なのですが、覚醒後の遊星歯車装置のエピソードが描かれないのって、「永遠の生命」を手にした彼らにはもう物語が紡げないということなんじゃないでしょうか。彼らはもう新しい明日への希望を感じることはなく、ゆえに成長も成熟もすることがない。クミコの死の意味を否定するしかなかったバクのように、魂の牢獄に閉じ込められた彼らが「生きる」物語はそこで終わる。End of the story.
 だから彼らは自らそれに気付き、永遠性を捨てることで再び生きなければならない。死と引き換えに永遠を手にした吸血鬼が、人間に戻り有限の生命を取り戻す。いち早くそれを理解したのは、かつてピッツと対になるラッパを従え、アバターとしての日々は「辛いことだけではなかった」と語っていたキルトガングの王族・セイレーンことセツナ。やるべき事を見出した途端、アマラが取っていた遊星歯車装置の主導権を彼女が握るのは面目躍如といったところでしょうか。序盤からダイチが言った「風」がずっと引っ掛かっていたモコ、「本当の光が見える生き方をしてね」という言葉を残されたバクも、キルトガングという種を否定するようなセツナの言葉の意味を察します。
 その場にいなかったメンバーは何も分からないまま人間に戻り、永遠の生命を二度と手に出来なくなったのが気がかりですが、少なくともジンとアイについては多分大丈夫だろうと言えるくらいの描写はされているんですよね。もちろんもっと出番が欲しかったという不満とも両立はしますが、言われてるほど掘り下げ不足ではないと思います。
仲間という言葉を嘲笑しながらも、他のどのメンバーよりもアマラとモコに付き合ってきたジンが、アバターの頃の苦い思い出を引き摺っていることは明らかです。アイに関しては、言うまでも無く覚醒後も精力的にアイドル活動に勤しみ、本気でそれを楽しんでいた様子が窺えます。この二人なら、多分適当に有限の生命も楽しめるでしょう。
 ただ一人、リンに関しては明らかに足りてないと思います。もちろん「アマラとモコに協力的でない」というのも立派な描写ではあるのですが、それじゃあ覚醒後普段何をしているのか、彼女だけ見えないんですよね。同じ出番ない組でも、セツナはキルトガングの王としてリビドーを集める役割にひたすら殉じているし、バクはボディガードとして彼女を「守っている」ことは分かります。これらもアバター時代の生き方の延長線上にある一貫したキャラ描写。それでもやはり、覚醒後彼らが普段何をしているのかは映像で描く価値があったことだと思うし、リンに関しては最低限バイクに乗っているのか乗っていないのかくらいは示してくれないとその行く末に想像がつきません。23話の描写では、「夢」であるがゆえに曖昧でどちらとも取れちゃうんだよなぁ。
 私が「もっとこうした方が良かったんじゃないの?」と言うとすれば、箱舟派との対立を0.5話くらい削って、遊星歯車装置の面々の日常に当てていれば、という感じになります。逆に言えば、そこ以外に瑕疵と感じた部分はないんですよね。細かな不満はあれど。
 
 大分脱線しましたが、セツナ・モコ・バクはパックの有り様を見てキルトガングの在り方を省みて、自らのエゴブロックを破壊する方向へ意識が傾きます。しかしただ一人、アマラだけが彼らが何を言っているのかまるで理解することができません。アマロックは遊星歯車装置で最も純粋にキルトガングの思想を体現し続けた存在であり、他のメンバーが地球人の言動や自らの中にある地球人としての記憶に揺さぶられる中でもその姿勢を一切崩しませんでした。その背景には、おそらく誰よりも早くキルトガングに目覚めた(=アバターとしての経験が薄い)という事実が関係しているのでしょう。
 しかし「風」という言葉を理解し、その借りを返すのだとアースエンジンを庇いロビングッドフェローの攻撃を防ぐモールキンの姿に、ついに彼の心は動きます。
 「モコ……!」と、キルトガングの名前ではなく彼女のアバター名を口にするアマラ。脳裏に甦るのは、地球でずっと一緒にいた彼女との記憶。衝動的に飛び出した彼は、モコを守るため自らのエゴブロックを破壊します。
「一瞬の風に身を委ねる」。永遠を生きてきた彼にとって、それこそほんの一瞬でしかない記憶に突き動かされ、刹那的な感情に身を任せた。理屈の追い付いていない状態、無自覚だからこそ、その場の誰よりも早く「生きること」を体現することができた。素晴らしい、最高です。
 遊星歯車装置でなくなり、自らが見下してきた「不完全な人間」となったアマラ。
 その事実に耐え切れなかったのか、アジトに戻った彼はモコの帰還を待たずに逃げ出します。彼は今でも生きることの意味や、エゴブロックの本質を理解していないでしょう。自分がなぜあんな行動に出たのかも。
 でも今はそれでいいのです。いつかきっと「あの直感は、この時のためだった」と分かる時が来るのですから。Chance called Necessity.

 
 さて、パックに象徴されるエゴブロックの本質は、結局は他者の拒絶によって保たれる自意識の虚栄なんですよね。パックの作る新世界に支配できないものは存在してはいけない。つまり、自分が利用できない者は自分を利用する存在であると。理解できないものが存在することに対するイライラ。道具として作られた彼が結局はその枠組みから抜け出ることができなかったという辺り、悲哀を感じさせなくもない。
 肥大化したエゴが剥き出しのまま他者のリビドーに触れるとリビドーバーストという名の拒絶反応を起こすから、キルトガング及びパックはロボットという鎧で自らのエゴブロックを覆う、と。本当に設定の細部までテーマに直結してる作品ですね。
 その延長線上で、ブルーメに自身をインストールしハナの肉体を得たパックが追い出される破目になったのも、思いも拠らぬ形で他者のリビドーに直接触れてしまったからですね。そう、テレパシーキスです。
 20話ではお預けだったダイチのハナへの「お目覚めのキス」と、パックがヒトミちゃんやその他OLたちに向けた動物的な欲望とは一線を画す心のあるキスが、鮮やかに集約された名キスシーンでした。
 生命体に道具として生み出された存在が、逆に生命を道具として利用する。利用し利用されの円環構造から抜け出すことのできないエゴブロックを持つ者、その化身であるパックは本作のラスボスにふさわしい存在だったと言えるでしょう。

 さて、他者を自我の中に受け入れられず、「自分と道具」としか見ることのできないエゴブロック勢力に対して、ライブラスターを持つミッドサマーズナイツはこれまで実に対照的な在り方を示してきました。
 まるで足並みが揃わず、バラバラだった遊星歯車装置に対し、ミッドサマーズナイツは4人がそれぞれチームとして相互的に仲間を支え合っています。また、ソルティドッグ幹部が言っていたように大人と子供が、互いに認め合っているという点でも、広い意味で彼らがチームとしての機能を自分たちの強みとしてきたことがわかるでしょう。他者を認め尊重するその姿勢は、エゴとは対極にあるものです。
 この最終話だけ取ってみても、常にお互いに声を掛け合って無事を確認する様が描かれてますね。印象的なのはいつも冷静で肝の据わっているアカリがハナがブルーメから出られないという事実を聞いて動揺するシーンで、ここでダイチの「必ずハナを助ける」という宣言で我に帰るんですよね。そんなアカリもダイチに引っ張られるだけじゃなく、ロビングッドフェローが地球へ飛んだ際にはいつものようにダイチに発破をかけてその背中を押します。
 一方が一方に助けられっぱなしなのではなく、ダイチとテッペイのブルースター交換の儀に象徴されるように、相互的に作用しあう関係が彼らの強みなんですよね。ハナにしたって、「眠り姫」のような扱いを受けていながらも、その立ち位置に収まらない。パックを撃つのをためらうダイチに先んじてライブラスターを放ち、ロビングッドフェロー崩壊の際にはダイチの手を引っ張って走り出します。戦士でありダイチのお姫様でもある、そんな多面性が彼女を「道具」から脱却した「人間」たらしめているのだと思います。
 さて、エゴブロック側が人間関係にすら「人と道具」メソッドを適用していたのに対して、ミッドサマーズナイツは道具を自分の一部として扱います。この点にも他者を受け入れる彼らの在り方があらわれているのですね。何せライブラスターは銃の形をした「生命体」なのですから。パックがライブラスターを撃てないのも当然、彼は他者を道具としてしか思っておらず、支配できないものを受け入れないのだから。

 ダイチたちの在り方を一言に集約したのが、ラストに提示される英字タイトル。
 Close to you.
 あなたのそばに。最後には分かりやすく、ダイチとハナ、テッペイとアカリが共に寄り添っている姿が描かれました。後者に関しては、キヴォトスに乗ったままではエンタングルリンクで飛べないアカリが置いてかれるから、という事で説明はなくとも理由付けがしっかりしている所が鮮やかだしこの二人らしくていいです。
 そして、青髪の少女エーリアルと、リスのような動物ピッツ。彼らもまたずっとそばにいた存在。エーリアルは結局一言も喋らず物語の始まりから終わりまでずっとダイチを見守り続け、そして想いを力に変えるための術を与えてくれました。結果を押し付けるパックとは逆に、手段だけを与えあとは人間たちの意志に任せる、もう一つの機械仕掛けの神がライブラスターという種だったと言えるでしょう。ミッドサマーズナイツはいつだって希望や決断と共にあった。だから彼らはその想いを力に変えてどんなものでも撃ち貫いてゆける。ご都合主義をテーマ性に接続した上でガジェット化させた銃、最後の最後まで強烈な存在感を発揮していました。
 そして忘れてはならないのがピッツの対になる存在。エゴブロックを永久に失い、完全に人間となったセツナのそばに消えていたラッパが姿を見せました。笑顔を見せるセツナが掛ける言葉は「お帰り」ではなく「ただいま」。ラッパがどこかへ行ってしまったのではなく、セツナが遠くへ行ってしまっていただけなのだと。セツナはもう、いつだって希望と決断の力、ライブラスターをその手に宿すことができるでしょう。それは、遊星歯車装置の面々も同じこと。「死んだ」のではなくマシングッドフェローという棺の中から「生まれ直す」。夢の中からの帰還を果たし、停まっていた彼らの物語は再び動き出すのです。

 今までに蒔かれてきたテーマの種が次々と花開いていくかのようなこの最終回ですが、やはり主人公ダイチが満を持して自ら「キャプテン・アース」を名乗るシーンを抜きにしては語れないでしょう。自らの願いと、地球に住む人々の命運を、青い星〈ブルースター〉を背負いロビングッドフェローの前に立ちはだかるアースエンジン・インパクター。そして名乗りと共に流れるのは『ビリーバーズ・ハイ』。ここからの最終決戦シークエンスは今までカタルシスを抑えに抑えてきた鬱憤を晴らすように凄まじいカタルシスを与えてくれます。
 ロビングッドフェローの内部を爆走するシーンは個人的にはウテナカーを思い出しますし、「ごめん、2号機!」という台詞はエヴァQのアレは榎戸さん担当だったの!?と短絡的に考えてしまうニクい半セルフオマージュで、最後にオーディナリーがダイブしていく映像の浮遊感に結実するまでのてんこ盛りっぷり。時間は短くても、お腹一杯です。本当に良く来てくれました、中村豊さん!

 ハナと共にパックと対峙し、彼女の命を案じてライブラスターが撃てないでいるダイチの気付きがまた素晴らしいんですよね。
 「あたしは、いつ死んでも後悔しない生き方をしたい!」と言うハナに、ダイチが連想したのは父・タイヨウの姿。希望を口にしながらも、死んでしまったタイヨウ。しかし彼は、「死ぬ時は笑って死ぬから」という言葉を残しています。その真意にようやく気付いたダイチは静かに微笑みます。死んでも誰かに何かを残す。ダイチの両親は共に死んでしまったけれど、彼らはダイチ自身を残した。そして、その背中は今でもダイチの中にあり、今の彼を確かに形作っています。ダイチとハナのオルゴンビームが交わって出来た二重螺旋は彼らが紡ぐ生命そのものであり、有限の生命が紡ぐ永遠のエネルギーに他なりません。パックのエゴブロックを撃ち貫いたのはまさに地球人のリビドー、「生きたいという意志」そのもの。
 永遠の命との対比で、命は有限だからこそ輝くのだと描いてきたこの作品。最終的に辿り着いたのは、「生」と「死」という対極の観念を統合したリビドーの在り方。
 ブルーメを破壊すればその生体部品であるハナは死ぬ。それが分かっていながら、「後悔しない生き方」をするためにハナはライブラスターを撃ちます。しかし、彼女は自ら死を選んだわけではなく、最後まで「生きたい」と叫び続けます。これが、決して矛盾しない。最後の最後まで希望を捨てない。彼らがあの星で交わしてきたいくつもの約束は、叶えることで効果を発揮するのではなく、そこにあるだけで瞬く明日への希望だ。
 ダイチはそんなハナの意志を尊重し、その手を伸ばし続けます。一度離れる2人の手、否が応にもウテナの最終回を思い出しますが、ダイチはキャプテン、自分で運命を選び掴み取ることができます。
 ラストシーン、ハナを抱え銀河を見上げるダイチ。
「やっぱり僕は、この星から見上げる銀河が一番好きだ」
 どんな冒険をしても、広い宇宙を経験しても、最後には必ず、自分が生まれ育ち、彼女と出会った場所へと帰ってくる。いい船乗りの条件は必ず帰ってくることだと、プラネテスという漫画の台詞でありました。帰る場所があるからこそ、どこへだって行ける。ダイチが言う「この星」とは、地球のことでもあり、ハナのとなりでもある。Close to you. 
 だからこそ、最後に彼らが生きていようが死んでいようが、もはや関係がないと思うんですよね。彼らは確かに生きて帰ってきたし、地球という生命を繋いだのだから。
 生と死は同一の場所にあり、ブーメランのように風に乗って戻ってくるまでが『人生』なのだと。それを示してくれたダイチは、紛れもなくキャプテンでした。

 スタドラにあったエンタメ性を排して、あらゆる設定や作劇によって「永遠の生命」「人と道具」「現代社会における生き方」というテーマを積み重ね描いてダイチの手に集約してみせたこの作品。
 その志は確かにスタドラよりも数段「もっとすごい空」に届いたと思います。
 マイオールタイムベスト作品入りの傑作認定と共に、この無駄に長い記事を締めくくりたいと思います。くぅ~疲れましたw
 
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