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キャプテン・アース

キャプテン・アース 総括

 結局書くじゃんよ。

 まず言えるのは、エンターテインメントとしては決して優れた作品ではなかったということ。よく言われているように、ロボットアニメの名を冠していながら、主人公機があんまり強くない、というかぶっちゃけ弱い。対キルトガングにおいては必ず劣勢を強いられる。また、2クール目からは対立軸に置かれているはずの遊星歯車装置とのロボットバトル自体が減少し、主人公ロボットが程よく手ごわい敵ロボットに程よく苦戦し最後には爽快に決めてくれる、というフォーマットがほとんど描かれません。ラスボスパックが不評だったのも(唐突とか言っちゃうのは論外として)多分主人公との因縁が一切なくて勧善懲悪としてノレない構図だからかな。パック(=エゴブロックの化身)は物語を通して積み重ね描かれてきた対比構造の頂点にいる存在なので、ダイチひいてはライブラスターの対極に位置付けられた構成上のラスボスとしては適任なのですが。
 こうして書くと分かりますが、そういったフォーマットを取っていたのが五十嵐×榎戸コンビの前作『STAR DRIVER 輝きのタクト』なんですよね。あっちは言わばプロレスショーとしてのロボットアニメの構造を1話完結という形で持ち込んでエンタメとして昇華させた作品。とするならば、『キャプテン・アース』は「そうできなかった」のではなく「そうしなかった」と考えるのが妥当でしょう。夕方と深夜、放送枠の違いもありますが、何より同じ様な作劇で作るならそもそもスタドラの続編で良かったわけですからね。アプローチを変えたというだけの話。
 そんなわけで、気持ちのいいエンタメとしての常道をことごとく外していく作劇をあえて取っているのが、この作品のイマイチな評判の悪さに繋がっているように思えます。もしそこに作品としての不備を説くのなら、序盤で視聴者に「スタドラっぽい」というイメージを植え付けてしまったことでしょうかね。ロボットアニメとしての作劇は実際真逆に近いわけですから。とはいえ、中盤以降はいい加減「そうじゃないんだ」と見る側が気付いて視点を変えてみるなり離れるなりしても良かったとは思いますが。

 それでは『キャプテン・アース』は一体どういうロボットアニメだったのか。
 1個の人間を身体的・精神的に「拡張(expand)」するガジェットとしてのロボット、永遠の生命を持つ機械生命としてのロボット、システム化された文明を象徴する機械知性としてのロボット、そして人の想いを力に変える道具であり隣人でもある「ライブラスター」としてのロボット。「永遠の生命」というSF命題と、「人と道具」という現代社会に通ずる命題を並行して描きつつ、最後に双方がダイチの手に集約されるまで拡張させるという物語構造を成立させるために、あらゆるロボットをモチーフとして描き出す。つまりは活劇の主役ではなくテーマそのものとしてロボットを扱うアニメと言えます。
 主なテーマは上記の2つだと思うのですが、それに付随する形で「エネルギー問題」「本当の自分」などが物語を通して描かれており、当初はバラバラでまとまりがないかのように思えた個々のテーマが収束したのが、ある意味での最重要エピソードである23話「真夏の夜の夢」ですね。終盤に提示するのは遅過ぎる、と思われるかもしれませんが、「それまでの物語の意味が後になって分かる」というのはまさに本作で描かれた「キャプテン」の意志そのものであり、一本芯の通った作劇を貫いたというだけの話です。

 個々のテーマについてもうちょっと具体的に考えてみましょう。
 まず、「永遠の生命」という問題。これは言うまでもなく本作の敵対勢力として描かれる遊星歯車装置のことで、彼らは自分たちこそが「本当の人間」だと宣言し他の生命体を自らの道具としてしか見ません。ところが、記憶が封印され地球人のアバターとして「有限の生命」を経験した彼らの内面には澱のように「生きた記憶」が残ります。
 それと対比される形で描かれる有限の生命を司るのはミッドサマーズナイツであり、それを顕在化したのがライブラスターというガジェット。彼らは今日よりも素晴らしいと思える明日のために戦い、約束を交わして戦いに赴きます。
 この、永遠と有限の対比構造がエネルギー問題にも掛かっていて、たとえばロボットバトルの構図においてもそれが拡張され描かれています。アースエンジン以下主人公側ロボットは破損すれば修理しないといけないし、迎撃のため地球から宇宙へ飛ぶだけでも莫大なコストが掛かるでしょう。対するキルトガングは自らエゴブロックを破壊しない限りは基本的に不死であり、リビドーカプセルが必要とは言え理論上は地球侵攻に何度失敗しても死ぬことなくチャレンジできる状態。こっちは一度敗れればそれで終わり。ジリ貧に陥りいずれ必ず負けます。だから西久保司令はオーベロン侵攻を最終目標としていたわけですが。
 とはいえ、そのキルトガングの「永遠性」を保つためにはセツナによる他種生命体からの搾取・消費が必要になり、パックも言っていたように無限の生命を保つためには有限のエネルギーが必要になるという根本的な問題に行き着きます。ただ一つ、無限のエネルギーを生み出すというライブラスターは、「永遠性」に拘泥する彼らには決して撃てないというアンビバレンツ。
 「永遠の生命を持つがゆえに有限のエネルギーの捻出に苦心する」キルトガングと、「有限の生命を持つがその想いが無限のエネルギーへと変換される」ネオテニーの対比構図。ライブラスターの力の正体は、一言で言えば「生きる意志」とでも表すような有限の生命が持つリビドー。死んでも後悔しない生き方を、明日へ繋ぐためにまっとうする。最終話でダイチとハナのライブラスターが二重螺旋を描いたように、それは生命の営みそのものであり、まさに有限の生命だけが持ちえる無限のエネルギーというわけです。
 一瞬の、気持ちのいい風。最終的に「永遠の生命」はもはや生命ではないとまで拡張したこの作品が、明日への希望を胸に決断していく「有限の生命」を拡張させるなら当然そこだろうという見事な落とし所で、「生」と「死」両方あっての「命」であると力強く描いた人間賛歌に結実したのが素晴らしい。

 さて、設定についてはやたら台詞で説明されるけどそれが物語中でどういう意味合いがあるのかは作中で反復され描かれる対比構造に目を向けないといけないのがこの作品の厄介な所のひとつですが、人物描写についてもかなりのクセモノです。
 登場人物たちを描くにあたってあまり説明的なドラマは挟まれず、言動の端々や些細な表情の変化、視線の先から想像を巡らして読み取るしかありません。また、対立関係にあるキャラクター同士が実際に顔を突き合わせて対話する、いわゆる「絡み」といった要素も薄いので、「Aを描くことで画面に映っていないBが相対的に描かれる」という対比構造に組み込まれることにより成立するキャラ描写がされていることを意識してないと実態以上に「人物の掘り下げができていない」という印象を受けるのではないでしょうか。重ねられる対比描写や、行間を読まなければ分からない心理描写を汲み取ることさえできれば、登場人物それぞれの性格はもちろん、同勢力内でもその価値観や思考形態に個性が見られるように作られています。さすがに「人間とキルトガングが別種なのに価値観に違いが見られない」という感想には眩暈がしましたが。
 そんな分かりづらいキャラクター描写をしてるのにも、やはり物語構成上の意義があると思うんですね。たとえばテッペイ、序盤に味方と思われる彼の正体がキルトガングであると発覚するんですが、その背景がほとんど描かれないので、彼がダイチたちとの日常にどんな意義を見出しているのか感情移入できない、という意見が当時見られたのを覚えています。永遠の命を持つテッペイの内面は確かに読み取れません。でも、それはダイチやアカリにとっても同じなんですよね。それでもアバター時代と同じように接してくるダイチにテッペイは心を動かされるし、アカリは「君の目には、いま世界はどんな風に見えているのかな?」とまさに彼の心情に思いを馳せているわけですね。ハナに対する彼らの接し方も基本的に同じで、気になる他者を知ろうとして想像を巡らせてみるのを意識的にやっていたのがテッペイとアカリ、直感的にやっていたのがダイチとハナ、みたいな感じで雑にまとめることができそうです。他者の心情を理解しようとするその姿勢は、他者を見下し利用することしか考えない、空虚な優越意識を万能感として振りかざすキルトガングとは真逆。だから彼らはエゴブロックから抜け出せない。
 互いを知りたい、知られたくないという葛藤を経て、ついに想いが通じ合う、その到達点として描かれているのがテレパシーキスですね。ダイチとハナ、テッペイとアカリの関係性が収まるべき所に収まる瞬間、その記憶と想いが共有されます。このテレパシーキスの設定もテーマを補強するのに一役買ってますね。ミッドサマーズナイツ内で行なわれるそれは、記憶の共有からの想いの伝達(=他者の受容)のために行なわれるのに対して、キルトガング内で行なわれるそれは基本的に情報伝達の手段でしかありません。これは真面目な話で、人間は種の存続のため生殖活動を行なうからこそテレパシーキスがそのための手段として描かれ、逆にキルトガングは個で完結しているがゆえにそういった意味合いが伴わない、純粋にテレパシー機能を発揮するだけの行為になっているのです。しかしながら、「生前」の記憶に影響を受けているモコがアマラとのキスにそれ以上の意味を見出している様子も早々に描かれており、細部まで設定が物語に活きているのを感じますね。

 また、アカリに関しても、過去に根ざした想いと覚悟を秘めていることが分かるのですが、なぜ彼女が魔法少女を名乗り地球の命運を掛けた戦いに自ら馳せ参じたのかは最後まで語られることはありません。それはもちろん、作中の描写から十分に推測できる範囲であるから、というのもあるのですけど、それ以上にメイン4人が過去よりも未来を見据えて動いているからというのが大きいと思います。アカリが今までは孤独であったことは何度か言及され、物語中もしばらくは引き摺っていましたけど、それでもさしたるドラマもなく(もちろんきっかけはいくつもある)彼女の孤独は自然に雲散霧消しているんですね。基本的にミッドサマーズナイツの4人が抱える孤独感、自分への違和感というのは彼らが出会った時点で実質的に解消されている問題。「その事が後になって分かる」のがこの物語であるのは、先に語った通りです。言うまでも無く、偶然を必然に変える彼らの意志と決断があってのことですけどね。

 Chance called Necessity.
 取り消せない過去を背負って、踏み出していく、その決断を肯定し希望に変えるのがライブラスターであり、キャプテン・アースであるダイチの生き方。
 それに対比される永遠の生命が、物語開始当初のダイチの分岐点に接続されることで、単なるSF的命題が現代社会に生きる人々が抱えるアノミー的問題にまで拡張されてしまったというのは23話の記事で語りました。1話で普通の人間であるダイチの友人の誘いが、文句はそのままにキルトガングの悪魔の囁きに変換されてしまう、この脚本術は本当に恐ろしいしすごいと思うんですよね。今の自分にどこか違和感を覚えたまま、流れるままに社会に溢れる「エネルギー」を消費して、満たされない欲望を抱えて生きていく。開き直って、欲望のままに振舞うのが「本当の自分」だという生き方は結局自我を肥大化させることにしかならず、自らの殻に閉じこもった魂の牢獄からは抜け出せない。飽くまでこの世界を消費していくしかないのだと。

 「本当の自分」とは、自分が在るべき姿だと直感した姿に他ならず、決断による自己定義は他者の存在なくしてはありえない。テッペイはアルビオンから「嵐テッペイ」に、ハナはブルーメの姫から「夢塔ハナ」に、そしてダイチは「真夏ダイチ」でありキャプテン・アースでもある存在になりました。唯一夜祭アカリだけが、登場時より「魔法少女」と自己定義しており、他の面子よりも達観した立ち位置にしたのは彼女だけが最後までライブラスターを手にしなかった事と無関係ではないでしょう。彼女は物語開始当初からすでに決断を終え、ライブラスターに代わる「魔法」という武器を手にしていたのですから。

 希望とは「明日が今日より素晴らしいと信じること」、つまりは必ず変化を伴うもの。そしてその変化を能動的に起こすものが決断、「本当の希望は決断によってしか生まれない」。
 ダイチは一度、テッペイやハナと出会ったあの夏に帰った。しかしその後の彼は変化を恐れない。チームを組んで地球を脅かす敵と戦い、気になるあの子との関係を深めていく。
 自らの行動による結果も、託された地球の命運も背負って、人類未踏の宇宙を航海する。未知へのワクワクは、そのまま素晴らしい明日を信じることとイコールで結ばれ、だからこそ世界をただ消費するのではなく、自ら選び掴むことができる。自分と道具ではなく、両方揃って自分。
 欲望と機能が剥離し道具に振り回されるこの社会から抜け出したつもりでいるキルトガングが、結局その中から出ることができないのは、彼らが自我の中へ逃避したに過ぎないから。ダイチが何でも選び、どこへでも行き、どんなそれでも見られるのは、必ず帰ってくる約束を前提にしているからなんですね。帰る場所、本当の自分の居場所、いつもそばにいる誰かのとなり。決断によってそれを見つけることこそが、この街を生きていく術なんですね。世界は声に溢れて、やっと見付けたんだ、君のとなりを。
 地球の明日のために戦い、そして必ず一番好きな空が見られる星に帰ってくる。真夏ダイチが本当の「キャプテン・アース」となったラストシーンは感無量の一言です。


 というわけで、物語の表層的な筋を追っても決して面白いとは言えないエンターテインメントとしては凡庸極まりない作品でしたが、一方であらゆる設定が複数のテーマを同時並行で描き対比暗喩反復を駆使して幾層にも重ねられた物語構造のために配置されたような作り込みは異常なほどで、水面下で進行するように描かれるキャラクターたちの変遷と相まって熟成される終盤の静謐かつ力強いカタルシスは他の作品では得難いものがありました。めちゃくちゃ面白かったし、大好きな作品です。
 だからこそ、「ロボットアニメ」に対する世間の一義的な認識には勿体ないという思いを拭いきれないんですよね。あまり詳しくない私が言うのもなんですが、「青春モノ」がもはやそれだけでは括りとして大雑把過ぎるように、「ロボットモノ」に関しても細分化しなくては収まらないくらいの多様性がある分野なのではないでしょうか。

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アニバタ Vol.6アニバタ Vol.9に寄稿しました。よろしくです。


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