アニメを中心に、漫画や映画、小説など創作物の感想を載せるブログです。

輪るピングドラム

ピンドラ雑感 輪るピングドラムは愛の話らしい

愛についてこんなに考えたのは人生初かもしれない。


「愛してる」って言葉はあらゆる創作物で使われていて飽和状態にある。なぜかと言えば単純に聞こえが良く、何となく美しいもの、という共通意識があるからだ。人類にとって最も普遍的なテーマの一つであろう。

その結果、言葉だけが先行していて本当の意味がおざなりになってる気がする。「愛は地球を救う」的な番組や、偏見だけどJポップの歌詞で使われる愛のフレーズって安っぽい感じがしません?
中身の伴わない濫用によって、もはや言葉だけでは大した意味は持たない。

だから、ピングドラムを「愛の話」とするのは正しいんだけど伝わらない人には伝わらない。ふーん、だから?と言われるのがオチだ。

この作品のスゴイ所の一つは美しいものの影をしっかりと描いていて、そしてそれは「愛」に関しても例外でないことだ。

無償の愛を表現する場合、それは自己犠牲という形で描かれることが多い。

ここで注意しておきたいのはこのアニメが決して愛による自己犠牲を全面肯定している訳ではないという事だ。これは大前提。

それは壊れるほどの愛の一方通行っぷりが終盤に描かれていたことから分かる。三分の一も伝わらずに純情な感情は空回りである。

陽鞠を救おうと躍起になっていた冠葉の想いは届かずに、結局陽鞠に死を選ばせてしまう。

一方的な愛は自分も相手も救わず、破滅をもたらすだけだ。愛という美しい言葉の影の部分である。

書いてて思い付いたがストーカーだった頃の苹果も愛という言葉だけが先行して、自己を殺して暴走していた状態だった。

桃果も人に愛を与える存在であったが、その愛を脅かす眞悧には牙をむき、容赦なく排除しようとしていた。愛ゆえに他者を排斥する、これもまた愛の一つの側面だろう。

この作品は決して愛を都合の良い言葉として使っていない。時に人をすり潰すこともある諸刃の剣として描いているのだ。

よく物語のクライマックスとして使われることの多い自己犠牲のシーンは、実はそんなに好きではなかった。
大抵は愛の帰結として行われるのだが、どうしても救われる側の想いを無視した一方的なものとして映るからである。残されたヒロインは泣き崩れ、何となく良い話として物語は終わってしまう。

輪るピングドラムはそこに踏み込んだ。
冠葉の自己犠牲は、ずっと否定され続けてきた。
最終話のセリフ、「俺はまだお前に、何も与えてない」が示す様に彼はむしろ愛を受け取ってもらえないことにずっと苦しんできた。
ここでスゴイのは、今までの思い出を冠葉から与えられた果実として肯定する(ここまでは予想通り)だけでなく、なんと陽鞠に彼の犠牲を受け入れさせてしまうのだ。彼の魂をこがす愛を陽鞠が受け入れる事で冠葉に救いをもたらした。愛は一方通行じゃ真に成立しない。相互に分け合ってこその愛なのだ。それでようやく愛は本当の光になるのだと思う。

晶馬と苹果はどうだろう。この二人の結末は冠葉&陽鞠とは明らかに違っている。晶馬は苹果の自己犠牲を受け入れずに自らが炎に焼かれたし、苹果はもちろん彼の犠牲を容認していない。

結局この自己犠牲は相手の意志を無視したものなのか。あのシーンは苹果を救ったのではなく、あくまで兄妹の罰を受けただけと解するべきかな。少なくとも、最後の最後で二人の愛は通じ合った…はずなんだよなあ。(うーん、この辺はまだまだ考える余地はありそうだ)

さて、運命の乗り換えによって一度世界はリセットされた訳だが、もちろん現実でもこうやってリセットすればいいんだ!なんて主張をしている訳ではない。

重要なのは、「失ったもの、それでも残されたもの」だと思う。今年起こったことにもリンクすると思うが、自分の日常が突然失われてしまうことは確かにあり得るのだ。それでも、辛い事にも悲しい事にも必ず意味がある。日常は永遠ではないが、その中に永遠に自分を支えてくれる「愛の記憶」があるのではないか。大切な人を失っても、愛された記憶は残っているから、陽鞠と真砂子は幸せを見つけられるのだ。ここでも苹果に愛の記憶が残った描写がないのが引っ掛かるなー。

記憶による救済というのは乗り換えの呪文にも表れている。
「運命の果実を一緒に食べよう」
この呪文はかつて冠葉が晶馬を救い、そして晶馬が陽鞠を救った言葉だ。この瞬間、確かに彼らは運命を乗り換えたのだ。世界線どうのこうのじゃなくて、誰かに果実を与えられればそれで運命を変えられるかもしれない。これがこの作品の示した希望だ。
そして彼らの呪文は、周り回って再び彼らを救ったのだ。そしてあなたたちも、過去に何気ない言葉で運命を乗り換えていたかもしれないよ、もしそうだったら素敵だよねと、そういう思想なんじゃないかな。

ところで、愛の行き着く先は結局自己犠牲でしかないんだろうか。個人的感情ではNOと言いたいんだけど、考えれば考えるほどそうは言えなくなってしまう。自己犠牲でしか愛を表現出来ないとは思わない。実際ほんの些細な思いやりで愛を示すことはできる。
しかし、究極的にはやはり自分を捨ててでも相手を救いたいという気持ちを生み出してしまうのだと思う。愛の本質は自己犠牲、これは尊くも残酷な真実なんだろう。

この作品は従来の娯楽作品の分を越えて世界の光と影の両面を描いてきたと思う。フィクションでぐらい明るく単純な話がいいと言う人もいるだろうし、むしろ娯楽としてはそちらの方が正しい。
ただ、何かを伝えたいという強烈な欲求がある場合には、社会の、美しいものの影から目を逸らしてはいけないと思う。その点では、この作品は視聴者に対して、少なくとも誠実であった。無責任な綺麗事は言わなかった、それだけは確かだ。

さて、途中から自分でも何を言ってるのかよく分かってないグダグダな記事で今年の更新を最後にします。

輪るピングドラムが私に与えた影響は測りしれず、こうして普段考えないような事を延々と考える羽目に陥っています。もう好きとかそんな領域じゃなくて特別な存在になっています。

基本は一過性の娯楽、その場限りの消費物ですが、たまにこういう作品に出会えるからアニメはやめられないのです。それは小説でも漫画でも映画でも同じ。来年も素晴らしい物語に出会えますように。

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