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ユリ熊嵐

ユリ熊嵐 1話 「私はスキをあきらめない」 感想

 万物のアルケーはクマである
 テロスを変革するのはユリである!


 21世紀屈指の大傑作『輪るピングドラム』、その最終回放送から3年弱、ついに幾原邦彦の最新作がヴェールを脱ぎました。
 まあ教養に裏打ちされた深く鋭い考察はイクニガチ勢の方々がやってくれているはずですので、お呼びでない私のような人間はゆるーい感じで楽しもうと思います。果たして各話感想、完走できるのでしょうか。

 いつも通りぶっ飛んでいると言えばぶっ飛んではいますが、ウテナやピンドラと比べてみると個人的にはややフラットな印象を受けました。背景美術や舞台劇風のダイアローグ、記号的モチーフをふんだんに用いた幾原演出はむしろ濃度を増しているとさえ思えるのですが、全体的な起伏というかメリハリが少ないのです。
 たとえばウテナを連想させる螺旋階段もピンドラを連想させる断絶のコートも過去作ほど「そのシーケンス自体」を強調してはいない。テンションの上げ下げが弛緩気味に感じる。
 あとはOPとEDへの入りが、タイトルコールやらBGMによる繋ぎによって本編との境界を微妙に曖昧にすることでピンドラの時のような1話単位での構成としてのキレがない。

 一応言っておきますけど作品の不備を説いてるわけではないです。
 この全体を覆う締まりのなさが(実はそれを統制している一番の要素は「音」だと思う)地に足の着かない感覚を誘発させてきて、見た目はポップなのにその裏にあるエグさを隠さない作風(これも2クール構成を利用して世界をひっくり返したピンドラとの相違点)を補強させているように思います。気持ちの悪い浮遊感。
 だからまあ視聴感としてはしこりを残しやすいつくりだし、というかわざとそうしてるだろうし、繊細なエロス芝居や扱ってる表面的なテーマのニッチさも相まって今まで以上に人を選ぶ作りになっているのではないでしょうか。
 これと比べると、ピンドラの1話がすごく普通のアニメだった気さえしてきます。生存戦略こそインパクト大でしたけど、あれはちゃんと「ピングドラムを探して陽毬の命を救う」という主人公の目的がはっきりと提示されていましたからね。
 演出の奇抜さ云々以上に、ストーリーラインレベルで何をする話なのかが曖昧なのは大分不親切だと思います。
 だがそれがいい。

 しかし本当に何の話か分からないかと言うと全然そうではなくて。
 あらすじはるるが説明した通りなので省くとして、1話のタイトルが何よりも雄弁に内容を語っていますね。
 スキをあきらめない。実際に作中でその言葉を口にしたのは、人間である紅羽と純花、そしてクマである銀子の三人。わざわざ「スキ」とカタカナで書いているからには、当然一義的な言葉として使われているわけではないでしょう。
 紅羽と純花が育てる白い百合の花言葉は「純潔、無垢、清浄」といった(「甘美」というのもあるのが気になりますが、ひとまず置いておく)清らかさをイメージさせるもの。とすれば彼女たちの「スキ」は今の所は「好き」と受け取って差し支えは無いでしょう。
 一方紅羽にデリシャスメルを嗅ぎ取り、ゴリゴリと歯を鳴らす銀子に見られるのは食欲、あるいはそこから想起される欲望を示す飢え。彼女の「スキ」は空腹の「空き」。
 
 つまり純粋な気持ちから来る他者への想いとしての「スキ」と、他者に向けたエゴイスティックな欲望としての「スキ」という対比が、表層においてヒトとクマの関係性に現れているということですね。
 そして、前者の「スキ」を阻むのが透明の嵐、後者の「スキ」を拒むのが断絶の壁、という構造になっているのだと思います。
 ただ、これはあくまでも表層。スタートラインに過ぎません。

 透明の嵐、このキーワードはやはりピンドラを想起させますね。
 しかしながら、ピンドラでは透明になることを選ばれないこと(=死ぬこと」と描いていたのに対して、本作ではむしろクマに食べられないための生存戦略として描かれています。
 多分段階の違いだと思いますが、親に愛されずすり潰されることを「透明」と表したピンドラの次のステージとして、出る杭の打たれる人間社会に放り込まれた少年少女の苦しみを表しているのだと思います。
 純花が紅羽と会うのに人目を気にし、昼食も教室から出て誰もいないところで食べる様子から、彼女がイジメに近い状況に置かれていることが分かりますね。紅羽が彼女といるシーンでは、意味深に校舎のカットが差し挟まれますが、まるで学園纏う空気そのものが彼女たちを監視しているような印象を受けます。
 切り取られる百合の花(マイノリティとしての百合の否定も含む)や、百合園さんと交わされる友情に水を差すように投擲されるレンガの描写。これらに行為の主体が描かれないのは、ある個人の悪意ではなく、主体性のない「全体」という空気そのものが彼女たちの逸脱を許さないのだという事を示す演出意図に思えます。
 周りから浮かないために、排斥されないために、周囲に合わせて空気を読んでひっそりと生きていく。クマが純花を襲った時、透明な嵐は次なる標的を紅羽に定めます。常に置かれていなければならない「弱者」のポジション、まるで監獄のような印象さえ受ける学園のなかで、目を付けられないためには透明になるしかない。
 ただ、そんな透明な彼女たちがクマの脅威にただ怯える中で、ただ一人クマに立ち向かう意志を見せているのがライフルを手に持つ紅羽なんですね。元ネタの一つであろう吉村昭『熊嵐』でも、村の人々や警察隊が羆の猛威に惑う中で、孤高のマタギが標的を仕留めていましたし、この構図は結構重要な気がします。

 透明になることで「個」の突出を免れ、クマの獲物になることを避ける少女達。それに呼応するように、螺旋階段を下るるる(この名前メンドクサイな)がはないちもんめのメロディで「あの子が食べたい」と集団ではなく個に狙いを定める段階があることを歌っているんですね。そして「あの子じゃ分からん」から選ぶ手段として「裁きを受けよう」と結ぶ、正直その意味にまではまだ考えが及んでませんが、それがあの断絶のコートに繋がっていることは明白ですね。

 るるが「あの子を食べる」ために裁きを受けようと歌う一方で、消えた純花の死を否定する紅羽の下には一本の電話。紅羽の純花に対する想いは本当の「スキ」なのか、それを試すための断絶のコートからの挑戦状。
 先述したように、本作で繰り返される「スキ」には今の所二つの意味が見受けられますが、ヒトとクマの関係性として対比されつつも、ライフ・セクシーが「クマに身を委ねる」必要があると告げたように、二つの「スキ」が両方合わさって初めて「本当のスキ」になるのだと。
 純粋な「スキ」では綺麗なものから壊されるという透明な嵐に対抗することはできない。
 透明な嵐に混じらないために、自らのエゴからなる欲望の「スキ」を手にすることが必要になる。
 断絶の壁とはヒトとクマを分かつガジェットであると同時に、人間社会によって抑圧された個と集団圧力の断絶を表すモチーフなのではないでしょうか。
 まあ、まだ1話なのでこっからまたひっくり返されるかもしれませんが。

 ユリ裁判の描写が一番のくせ者でして、「透明になるか」「人間を食べるか」の択は上記のような透明の嵐に対抗する術としての他者への欲望、ということで理解はできるのですが、なぜ後者を選択することで「ユリ承認」されるのかがさっぱり分かりません。そもそも紅羽は受動的にクマに食われていただけで何かを選択したわけではなく、どう「挑戦」に繋がるのかが分かりません。
 もちろん、まだ1話なので分からなくていいのだとは思いますが。

 もう一点、本作への期待が高まったポイントとして、紅羽が教室を去った純花を見つけた屋上のシーンがあります。ここで純花がちくわパンを紅羽とはんぶんこするのですが、個人的にはどうしてもピンドラ最終話での冠葉と晶馬を思い起こさせます。
 二人は純粋に互いを思い合っていた。「スキをあきらめない」のだと宣言した。
 それでも透明な嵐にすり潰されそうになる。それでもその手を掴むためには、己のエゴを曝け出さなければならない。高倉家が運命を乗り換えた、その後の生存戦略を描いてくれるのだと確信できた。もうこれだけで感無量の1話でした。
 力の及ぶ限り、断絶のコートからの挑戦状を受けて立ちたいと思います。


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アニバタ Vol.6アニバタ Vol.9に寄稿しました。よろしくです。


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