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ユリ熊嵐

ユリ熊嵐 感想 嵐の中で輝いて

 そのスキをあきらめないで


 計算された物語構成、緻密な画面設計、相互に補完し干渉しあうキーワードやメタファーの数々。積み重ねがものを言う作劇をする人、という印象の強かった幾原邦彦監督ですが、1クールでも問題なく傑作を産み出せることを証明したのが最新作『ユリ熊嵐』と言えるのではないでしょうか。
 繰り返される言葉はしかし場面によって万華鏡のように違う意味を放ち、今までと比較して大分ストレートに思える作劇はその分容赦なく社会の、そして我々自身の虚実を暴き出す。無駄がない故にもう少し遊びが欲しかった、というのも正直な気持ちですが、だからこそ見れば見るほど喰い殺されかねない迫真性を持つ作品になっているのもまた事実。クマショック!

 さて、同調圧力から集団意識、あるいは社会通念にまで射程を拡げた感のある『透明な嵐』。本作のユリというキーワードからするとまず連想されるのは社会的に迫害される同性愛。以前Twitterで流れてたこんな事例http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2008/11/post_287.htmlがピンポですが、異なる種族の戦争まで描かれたようにこの世界に大小問わず様々な形で偏在する文字通り見えない嵐と呼べるほどの強度を持った言葉になっていると思います。限りなくそのものに近いまとめブログとかが「透明な嵐ってなんなん?」とか言ってるのを見ると失笑を禁じえない。
 時折なんにでも当て嵌まる便利ワードっぷりを揶揄するような意見も見られましたが、そもそも抽象性を追及した作劇自体が対象を限定しないため(同性愛だけの話ではないように)の、普遍性を獲得するためのものだと思うから「だってそういう風に作られてるし…」としか言えないんですよね。まあ単に実質ウテナとか実質ピンドラとか実質ユリ熊とか一々うるさいんじゃボケという話でしたらごめんなさいするしかないわけですが。

 話を戻して、じゃあこれがマジョリティの無関心と不理解にさらされたマイノリティたちがこの世界でどうにかすり潰されたりせんぞと足掻く話かと言えば、そうだけどそれだけじゃない。透明な嵐に晒された紅羽を守るためにヒトを食べ続ける銀子とるる。紅羽が標的になるまでは自分もまた透明な嵐の一員だった純花。単に彼女等を可哀相な被害者として描くのではなく、自身もまた罪を犯した加害者であるという構図を隠さないのがこの作品の容赦のなさ。紅羽や銀子たちに同情して、その結末に感動して終われればそれはそれでいいとは思いますが、それを見てるあなたたちは「透明」じゃないんですか?、という話ですよ。これまでの自分を振り返って、今の現状に立ち返って、あなたは誰かを排除する側には立ってないのか、という問題提起。無意識なのは当然、だって透明な嵐に罪の意識などないから。私だって、日常的に誰かへの不理解や無関心から知らずのうちに近いことをやってますよ。被害者と加害者、なんて単純な対立構造には収めてくれない。自分は被害者だと信じて安心する思考は、それこそ透明な嵐のものだから。

 『透明な嵐』は毎回わざわざ答えの決まりきった儀式を行い、排除すべき悪は誰かという認識の共有を行う。全員が共犯者となることで責任の分散を行うと同時に、大多数の合意を得ることで自分たちの行いの正当性を獲得するのだ。だからこそ、彼女たちには罪の意識など微塵もないし、それによって安心を得ることができる。赤江カチューシャや鬼山(この子だけ名前覚えてない)さん、針島薫と喰われても喰われても後から後から湧いてくるように、透明な嵐には議長を務める代表者と呼べる存在はいても決して「そのもの」じゃない。だから誰にでも代替可能な単なる役職だったのだけど、それでも最後にその座に着いたのが大木蝶子だったのは意味があると思う。赤江カチューシャはともかく、鬼山も針島もそれぞれ百合園蜜子やユリーカ先生に乗せられて、その承認を得るために行動していた節があった。しかし蝶子には特定の誰かの承認を欲することはなく、ただただ純粋に透明な嵐への信仰を以って誰よりもクマ排除に邁進し成果を上げて見せた。だからこそ、神様など存在しないと豪語した彼女が、クマリア様の顕現を目撃して初めて揺らぎを見せ、「迷うな」「考えるな」と叫び目を閉ざして排除の命令を下したわけです。あの瞬間、彼女は自分が信じる正義を根幹から揺るがす存在に本能的な恐怖を覚え、はっきりと「自覚して」拒絶の道を選んだのです。他の子は従っただけだけど、彼女は選択した。それが蝶子が亜依撃子と並んで最終回の最重要人物足る所以なのですが、その話はまた後で。


 この作品が『断絶のコート』と称して裁判要素を持ち込んできているのは、透明な嵐との対比として「罪の自覚」を持つ主人公達を描くためなのではないでしょうか。物語当初から断絶を経験し、スキを拒否した銀子とるるは罪熊を自称し、その上でさらなる罪を重ねることを宣言することでユリ承認してきました。
 集団に埋もれず、自分のスキを貫き通すためには、その分誰にも責任を被せずあらゆる咎を背負わなくてはならない。それがまた透明な嵐に排除される要因となってくるという悪循環。リアルは地獄。その中で自分を保ったまま生きていくにはどうすればいいのか、そのある意味での模範解答を示したのが透明な嵐に身を潜めつつ機を見て自らの欲望を満たしていた百合園蜜子なわけですが、彼女のそれは余程賢くかつ器用でないとできない選ばれた強者の振る舞いですからね。ユリーカ先生は悪賢かったけど不器用過ぎて自らのスキに狂わされて滅んだ。透明なフリをできるほど器用でもなく、欲望に身を任せられるほど俗悪でもない人間などは生きづらいなんてもんじゃないでしょう。
 誰かのスキにいつも守られてきた紅羽が最終回で裁判にかけられ、ここで初めて自身の罪に向き直る。断絶の壁を越え、約束のキスを交わすためには、何よりもまず自分自身に向き合わなければならない。銀子もまた、自らの罪の象徴としての「ヒトリジメにしたいという欲望」の権化、悪霊・百合園蜜子との対話を経なければともだちの扉には辿り着けなかったわけです。
 自らの罪を認めた少女たちが取る行動は、「自罰」であり「贖罪」であると思う。それを最も体現していたのが百合ヶ咲るるであり、彼女は「スキをあきらめない」ためにキスをあきらめた罪熊。大好きな銀子のために行動し、紅羽との仲を取り持ち、その身を挺して二人の未来を繋ぎとめた。るるはかしこい(確信)
 途中で嫉妬に駆られるブレがまたいいんですよねぇ。彼女をただの天使にはしない。そしてその痛々しいまでの献身があったからこそ、彼女のスキが本物として承認され、最後の最後でキスになって帰ってきた。林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。
 自分と相手が違うから、そこに断絶があるからと言って、相手を自分と同じ色に染め上げてしまうのは「ともだち」という共同体意識を迫る透明な嵐と何も変わらない。だからこそ、鏡の前に立ち、自らを縛る社会への帰属意識を、思考を留める固定観念を、そして純真を噛み殺そうとする内なる獣を引き裂き撃ち抜かねばならない。自分を疑え、考えろ、そして撃て。お互いがお互いのために変わりたいと願えば、きっとクマリア様が彼女たちが信じたあの場所へ連れてってくれるから。


 最後に、この作品における「スキ」について。
 わざわざカタカナで表記が統一されていることからも分かるように、「スキ」は単なる「好き」だけに留まらず、欲望からくる飢えを意味する「空き」にも心に空いた穴を意味する「隙」にもなり得る。そして思うに、登場人物が繰り替えし口にする「スキ」が一体どの「スキ」なのか、視聴者はおろか当事者にも分からないのではないだろうか。だからこそ、ジャッジメンズやクマリア様は再三その問いを投げかけるのだ。あなたのスキは本物か、と。
 きっとある時点では純粋だった「スキ」も、状況の変化や、時の移ろいによって変質していってしまうものなのだと思う。作中で最も長い時間を生きたであろうユリーカ先生は、自分のともだちだった澪愛が変わってしまった(ユリーカへのスキは変わらなかったのだと思うが)ことで、箱の呪いに回帰してしまった人物。るるの銀子へのスキも、一時醜い嫉妬へと転じて彼女を追い詰めてしまった。
 最も純粋で穢れのない存在が赤ん坊だという話もあったが、それこそ銀子が初めて出会った時にクマリア様の天啓を得た紅羽などは、無邪気で無知であるがゆえに純粋なスキを示したのだとも思える。しかし透明な嵐に触れたことで、その純粋さゆえの罪を犯してしまった。紅羽が銀子の罪を忘却したのは彼女に課せられた罰ではあるんだけど、大人になることで子供の頃は知らなかった「クマはヒトを食べる悪」という社会通念を身に付けてしまった、とも取れるよね。常識だとか、暗黙の了解だとか、ルールだとかマナーとかもそうだけど、確かに社会生活に必要なものが人々の思考を放棄させている、という側面はあると思う。もちろん、それを破ればいいというわけではなく、そういう決まりがあるからという理由で動くのは、それこそ責任回避のメソッドで、それがないと生きづらくってしょうがないという面も否定できないのだけど、行き着く先は「敵だから殺す」戦争のルールだからね、というのも描いてるんだよなー。あー、ドツボだこれ。
 スキはちょっとしたきっかけで本物からレプリカへと変わっていってしまう。それでも、誰かが誰かのスキに理解を示すことで、また次の人にスキが与えられ、リレーのように紡がれるとしたのがこの作品の描いた希望。紅羽は純花の髪留めを、銀子はるるのハチミツをと、それぞれのスキを拾った、見つけてくれたわけだ。そして純花は紅羽のスキを守り、るるは銀子がスキを叶えられるように願い、銀子が炎の中で純花の紅羽へのスキを守ったことで二つのスキの線が交わる。この過程で、純花のスキを拾った銀子が紅羽へのスキをこじらせて結果的に彼女のスキを殺してしまった、というファクターを挟むのがまたこの作品が綺麗事で終わらないところなのだけど、だからこそあの手紙を守ったのは彼女の贖罪として機能するし、そのご褒美として純花のスキが紅羽と銀子を結び付けるという構成が残酷で美しいものになっていたのですね。

 そして最後、断絶の壁でともだちの扉を見つけ、約束のキスを交わした紅羽と銀子。
 正直そこまで純粋な「スキ」を希求して欲望を否定しなくてもいいじゃん、と思う自分もいたわけですが、これは童話であり神話であるとすれば、少なくとも原点となるその場面では純粋な「スキ」を示さなくてはならないのですね。そうでなくてはあの場にクマリア様は顕現しなかった。そしてそれを見て自分の理解できない存在への畏怖を感じ取り排除することを選んだ蝶子と対比されるのが、最後の最後へモブから主役への転身を遂げた亜依撃子ちゃん! まさか彼女とこのみことゲス子が持っていくとは露ほどにも思ってませんでしたが、急にも思えるこの展開が肝なんですよね。その場の誰もが否定したものを見て、唯一同じ感動を共有できたのが、まったく異質な排除すべき存在であるところのサイボーグ熊だった。そしてそれを見捨てず、見つけることを選んだ時点で撃子はもう「透明」ではなくなったのです。
 断絶の壁は壊れず、透明な嵐は止まない。色の付いた撃子はこれから排除の儀で槍玉に挙げられることでしょう。それでも、スキをあきらめなかった少女たちを見て撃子が触発されたように、何度壊されてもスキをあきらめない者がいなくなることはない。

 スキを忘れなければ、いつだってひとりじゃない。
 スキをあきらめなければ、何かを失っても、透明にはならない。


 あまりにも悲壮な希望ですが、気休めを言わないのが誠実さでもある。
 それでもいつかは、と思えるのは撃子だけでなく、拒絶を選択してしまったために自らもまた欺瞞を自覚する者として透明な嵐から一歩浮き出てしまった蝶子の存在が我々への痛烈な楔として機能するのだと信じているからです。この二人は間違いなく、視聴者がその身を置くべき両天秤として本作に欠かせない裏の主人公でした。


 最近実感するんですが、組織に所属することで得られる承認は、「自分はここにいていいのか」という不安と常に隣り合わせで、だからこそ人は透明にならざるを得ない、という側面ってあると思うんですよ。私も外でほとんどスキの話なんてしませんし。でも、だからこそネットで思う存分スキを表明して時折承認を貰えたりもする今の環境に救われてる面もあるんですよね。
 ユリ熊嵐は、もちろん「スキをあきらめない」というのが最も強いメッセージだとは思うのですが、そのために己が罪悪を知り常に問い続け安易な快楽に流れそうになる欲望に抗えと突きつけてもいるわけで、きっついなーと思いつつ、うん、まあ出来るだけ頑張ってみるよと控えめな決意表明に収束せざるを得ないのが。いやこれマジで容赦ねぇよ。
 ピンドラの時はまだ95年を生きた世代の無意識にメスを入れる話だったからそこについてはわりと他人事として見れた感があるけど、ユリ熊は完全に自分が標的になったという感覚があり、ボディブローのようにじわじわと利いてきております。
 一応これ結構曝け出して書いているからね。


 捨て身で空を剥がしてしまえばいい 誰も見ちゃいねぇぜ


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