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戦姫絶唱シンフォギア

シンフォギアGXを最後まで見終えて

 GXの記事はこないだので最後だと言ったな。あれは嘘だ。


 11話時点で大分批判的な記事を書いといてアレだけど、最終回が思いの外私好みだったので、言いたい放題言った身としては作品評価が上方修正されたらちゃんと書くのが筋ってもんだと思うわけですよ。
 ……なーんて、嘘です。書きたいから書くだけです。

 何が良かったって、実質的に本作のテーマソングとなっている『Glorious Break』の「背負う覚悟はあるか?」「力とは何か?」という問いかけに答えていることですよ。
 この曲、作詞のしほりさんがシナリオを読み込んで書いたと言うだけあって、GXのアニソンとして完璧なんですよね……。上松×水樹曲では一番好きかも。

 ノイズのいなくなった世界で純粋に人助けのためにシンフォギアという力を行使する奇跡的な日々を謳歌していた響、だからこそその裏にある人を傷付けもする力という側面に脅え、一度は歌を失ってしまった。
 そして未来さんの言葉に人を助けるために力を行使する覚悟を背負った響が、それでも敗北を喫するという展開は、やはりそれだけでは解答として不十分だったことを意味すると、頑なに私は受け取ります。

 誰かのために歌を歌う、響のヒーロー的とも言えるその行動理念は、けれど自分のエゴを押し通す理由を他人にすり替えているという危うい側面も否定出来ない。それは、しばしば一方通行になる響の差し伸ばされた手が証明しているように思うし、6話で響の歌を呪われたものだと嘲弄しその手を拒んだキャロルは、徹底して彼女との相互理解を拒んできた。

 かくいう響も、やり方が最低なのでちょっと気付きにくいけど、失踪した父・洸がやり直そうと伸ばした手を自ら拒んでいる点で、その信念の絶対性に自ら影を落としている。
 どれだけ軽薄でも伸ばした手は伸ばした手。だからこそ、リトルミラクルの歌詞には「なけなしの勇気だって勇気」とあるわけだけど。
 GXで響の家族問題が引っ張りだされた理由は、つまるところ響が自分のエゴのために力を行使する理由として、もっとも誤魔化しが利かないファクターだからなんじゃないかと。
 だって、こんなどう見てもダメ人間な父親、手を切っちゃっても全然オッケーだと思うじゃないですか。体外的な正しさなんてそこにはないわけですよ。
 だからこそ響も、今までに見せなかったような少女としての負の感情を見せ、いつも自分ばかり責めていたのが、およそ初めて「お父さんのせい」と他人の非に憤るわけで、でもそれが期待の裏返しであるのが透けて見えるからこの辺の描写好きなんですよ。なんの話だっけ。
 
 父親との一幕で重要だったのは、響が洸の身勝手に「赦し」を与えたことで、多分それによって彼女が自分自身をも赦せたがゆえのラストのアレだと思うのだけど、この辺のロジックは描写不足か的外れかでどうにも弱い。十中八九後者。
 この辺はまた後述する。


 一方で、響の対局に置かれたキャロルだけど、彼女は世界に拒絶されたがゆえに世界を破壊する奇跡の殺戮者。歌を呪いと断じ、伸ばす手を拒み、あくまで奇跡を否定し続ける。
 そんなキャロルの鉄壁の金城を打ち破るのが響の伸ばすその手・ガングニールなわけだけど、臨界に達したエネルギーの中でキャロルが涙を流す表情が、壊す力で救えないものを象徴しているようでここも良いです。
 しかしそこからの、キャロルを救うべくなおも手を伸ばす響。この最終決戦のシークエンスが、仲間たちの絆を一つに束ねた力が破壊のために行使され、呪われた旋律であるイグナイトの力が繋ぐために歌われる、という構図の逆転性がテーマ性を象徴しているようでシナリオ的にはめっちゃ好きなんですよ。
 演出的には、「お前の歌」と言いつつ響歌ってないじゃん。流れてるの挿入歌じゃん。と思ったりもするのですが、こういう時に限って歌と物語のリップシンクが作中トップクラスで上手くいってるので否定仕切れないというのがなんともはや。どちらにせよ、コマ単位での映像とのシンクロはGXではほとんど見られなかったというのが残念ですが。

 ここまで来て予め結論言っとかないと話が進まないことに気付いたので言いますが、「力」というのは人を傷付けも救いもする、という性質が、奇跡にも呪いにもなり得るという作中のキーワードに絡まって、その両義性は何によっても保証されるものではないんですよ。
 父親の研鑽を奇跡にすり替えられた殺されたキャロルが、響たちが自らの手で描いた軌跡を奇跡の一言で片付けたように。あるいはダーリンスレイヴがもたらす呪われた旋律を、響がエルフナインの信頼と信じ続けたように。
 観測者によって如何ようにも定義されるのが力なら、その意味は究極的には自分が信じる正義にしかなり得ない。
 私が素晴らしいと思ったのが、最終話でキャロルへ、そして両親へと伸ばした響の行為ですら正しさが担保されていないこと。エルフナイン、そして父イザークと重なった手を掴んだキャロルは、しかしそのシーケンス故に「響と理解りあえた」ことにはならない。その上で、記憶を失い、そして命を失いつつあるもう一人の自身、エルフナインとの融合を果たすその結末が、キャロルにとっての救いとなったのかさえ分からないわけです。
 もちろん、父親の命題に正しい解(これも正解が保証されるものではないんだけど、キャロルが「世界を壊す」という曲解が間違っていることを「そんなことは分かっている」と否定した時点で、信じた上で自分の欲望に昇華させたエルフナインに軍配が上がる)を導き出し、キャロルが壊すと狂い酔うしかなかった世界から「消えたくない」と口にするエルフナインと一つになることで、実質的に父親の望みを果たしたことが救いになるとか、理屈はいくらでも付けられるのですよ。
 でも、想い出のほとんどを燃やし尽くし、融合後はほとんどエルフナインの人格に塗り潰された様を見ると、これで本当に良かったのかとしこりが残るわけですよ。

 立花家のラストシーンにしても、響の母と祖母の反応から見れば洸との和解は(母親の方に少しはその意志があったとはいえ)望む所ではなかったはずで、だからこそ2人の手を繋いだ響の行為は、紛れも無くこれまで彼女がずっと目を逸らしてきた己のエゴに他ならないのですよ。
 ここで響は、初めて誰かのためでなく自分のために手を繋いだ、力を行使した。傍から見れば「え? 本当にそれでいいの?」と思われかねないようなその行為、だからこそ彼女が向き合った「力とは何か?」への解答となる。繋ぐ手の暴力性を、それと自覚して行使する。
 「正義を信じて、握り締めて」
 最高じゃないですか? 

 ある意味で、初めから答を示し続けていたのがエルフナインなんですよね。
 彼女は世界を救うために、それが正義だと信じて当初から行動していたわけですけど、良かれと思ってした行為は実は全部キャロルの手のひらの上で、世界を壊す歌へと変換錬成されてしまう。それでも、彼女の正義を信じて握り締めた拳が世界を壊す歌を打ち砕く。
 廃棄物と名付けられた少女が、その意志から、そして器へとオリジナルに生まれ変わっていく物語性も好きですね。
 
 あるいは、善悪を超越する英雄を自称し、実際にその通りにのべつ幕なしに己の信じる英雄道を突っ走って勝手に自己満足して死んでいったウェル博士も、そういったテーマ性へのある種のカウンターとして配置されていたと言えるかもしれませんね。

 それがたとえ呪いであっても、我がままであっても、自分が正しいと信じて握った拳を振るう勇気。力の意味と、それを背負う覚悟を、一人の少女が身に付ける、まるで正しくない物語。
 こうして自分の中でまとめると、むしろ大筋的に今までで一番好きまであるので、あとはキャラクター描写や演出全般や歌の扱い方に中盤の展開諸々がどうにかなればシリーズ最高傑作に思えたかもしれない。まあ、言っても詮なきこと。
 ともあれ、終わり良ければすべて良しというわけでもないけれど、最終的な評価が上向いたことは事実で、それが言いたいだけの記事でした。


 次が4期か劇場版かはわからないけど、一旦監督は変えてみて、それでどうなるか確かめてみたいところではありますね。1期の伊藤監督か、安田賢司さんもいいけれど、個人的にはGXで一番演出的に良かった稲井仁こと小原正和さんにやってみてもらいたいですね。アクセルワールド2期の制作も発表されたし無理カナー? まあ、言うだけならタダということで。
 
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