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映画

映画 聲の形 感想

 作業用BGMはThe Who『Live at Leeds』で。


 読み切り掲載当時から話題になっていたことは知っていたものの、これまでスルーし続けてきたこの作品。まさかの京アニ山田尚子監督作品としてのアニメ化発表。
 当然のように劇場に足を運び、翌日には原作を読破。そして2回目の劇場鑑賞と、ここまできてようやく自分の中で腑に落ちるものがあったので、何か書ければと記事を起こしました。
 さらっと行きたい、さらっと。

 耳の不自由な聾唖者の少女がヒロインを努めているので、障がい者との交流がテーマの作品とする向きもあるみたいですが、私から見るともっと普遍的なディスコミュニケーションが基底にある人間関係の話。学校という閉鎖空間、多感な時期にあるモラトリアムだからこそ強調されるものはあるけど、ただ人と人の関わり合いにおいて立ちはだかる断絶の壁とその前に立ちすくむ少年少女たちの姿が描かれます。

 耳が聞こえる・聞こえない、ちゃんと喋れる・喋れない。硝子とその他の人間との間に描かれる「差異」が象徴的ですが、一方でそれがあくまで一番分かりやすい要素だっただけに過ぎない、という構造が物語の進展と共に詳らかになっていく。
 距離感、価値観、温度差、etc。ちょっと人と交流を持てばすぐにぶち当たる断絶の壁。
 自分の気持ちはちっとも伝わらないし、他人のことも分かりゃしない。
 主人公の石田将也は逃避したり心が折れそうになったりしながらも他者との向き合い方を模索し続け、最後には「生きるのを手伝って欲しい」と硝子と初めて対等な関係を結ぶに至る。それはひとえに、障がいの有無の差、あるいは被害者加害者の関係性、そういった断絶も人間関係の中で生じ得る壁のひとつに過ぎないと思い知ったからだと思うんですね。
 だからこそ、理解できない、完全に許容できるわけでもない他者と並んで歩き、善意も悪意も無関心もある周囲の聲に耳を傾けられるようになった所で彼の物語はひとまずの終わりを迎えるわけです。自分という存在を許せるようになることと、周囲の世界を受け入れることは不可分にして同義であると、とある二次元アイドルが口にした「自分を褒めてあげられなければ、誰かを褒めてあげることもできない」という言葉はそういうことだと思うんですよ。

 最初はこの映画のラスト、釈然としなかったんですが、あのグループの中に相変わらず正義感と自己愛を履き違えた倒錯聖人の川井と、出番が削られて「いやお前誰だよ」状態だった真柴がいるのがいいんですよね。
 序盤で将也が「友達の資格とは」みたいな事でウダウダ悩んでいましたが、結局の所んなもんはどーーーだっていいのです。真柴とかなんで居るのお前と私も思いました、ええ。でもただそこに居ることに本来理由なんて必要ないんですよ。
 別に仲良しこよしでもなんでもない、各々の意識の違いには依然として絶望的なまでの隔たりがあって、彼らの仲はいつ空中分解したっておかしくない。原作における映画作りのエピソードが丸々省かれたことによって彼らの繋がりは一層危ういものになっている。
 でもだからこそ、人間関係の(これは初見時に私が覚えた感覚をそのまま表現するんですが)「気持ち悪さ」が生々しく画面に映っていたように感じたし、そこから先の未来が描かれない、つまりは不定であるからこそ逆説的にそのひと時が青春の1ページとしてクライマックスに相応しい場面となる。初見時はマンションから落ちた将也を「島田たちが助けた」って情報いらねーだろ(原作ならいざしらず)とも思ったものですが、2回目の鑑賞で将也が勝手に切れたと思っていた縁も意外な所で繋がっていた、という側面に気がついて、これもまた微妙な均衡の上に成り立っている人間関係を描く上で必要なファクターだと勝手に納得できたわけです。この点を言えば中途半端に島田との関係を持ってしまう原作よりも劇場版の方が良いと感じる。

 そんな作品だからこそ、徹底的に描かれるディスコミュニケーションを決して否定はしない。最初は硝子と周囲との間にある聲の壁がその象徴として描かれていたわけですが、じゃあ将也が手話を習得して再会した後ならパーフェクトコミュニケーションが出来るのかと言えば、決してそうではない。
 将也の抱える罪悪感、そして他人に対するナイーヴな感情は彼に過剰な気遣いをさせるし、硝子にお構いなしに周りが喋れば、何を伝えて何を伝えないのか、手話を介してそれを伝える際に意図的に情報をコントロールできる。将也は徹底して、自分や彼女に対して都合の悪いことは硝子には伝えない。硝子は硝子で、それが彼女の培った処世術だからか、善意以外を表明することはほとんどない。そんな二人だから、ハートフルに見えるそのやり取りにもどこかガラス細工を取り扱う様なもどかしさを覚える。将也の現実をシャットアウトした果ての空虚な優しさは、やがて自罰的感情を忍ばせていた硝子を追い詰め、自殺未遂をさせてしまうわけです。
 余談ですが、ディスコミュニケーションの妙味を感じさせる一幕がありまして。硝子が将也に告白するシーン、手話をかなぐり捨てて自分の声で想いを届けようとする彼女のいじらしさが表れていますが、つたない彼女の発声はやはり正確には伝わりませんでした。
 面白いのが、「好き」が「ちゅき」になって「月」と将也の耳には変換され、彼はそれに対して「綺麗だね」と返す所。告白は伝わらず成立してないのに、文語表現上は「月が綺麗ですね」という定番のやり取りが成立してしまっているおかしさ。この二人の間に存在するディスコミュニケーション性を象徴する場面であり、すれ違いはすれどお互いを想い合っている関係性を描いた名場面だと思います。

 さて、そんなある種の欺瞞によって成立している友人関係にメスを入れる存在がひとり。そう、どうせオタクみんなコイツ好きだろと勝手に思っている植野という少女です。
 誰も彼もが多かれ少なかれ遠慮と気遣いを持って硝子に接する中で、ただひとり明確な敵意をぶつける人物。彼女のそれは将也への想いに起因する嫉妬心の発露、という側面が多分にあるにせよ、硝子との間にある根の深い断絶に非常に自覚的だったからこそのものであると思うんですね。
 自分と交流をするには、少なからず自分にペースを合わせなければならない、そのことを誰よりも良く知っていたのは硝子自身であり、小学校時代に最もその煽りを受けていたのは当初彼女の面倒を見ていた植野であるわけです。
 自分の耳が聴こえないから、上手く喋れないから、周りに負担を掛けてしまうことを知っているから硝子は常に責任の所在を自分に求め、どんなに拒絶され攻撃されても笑顔を貼り付け続けます。それが植野には許せない。
 植野は自分が相手に持つ悪意をあえてぶつけてくるし、その相手も自分が気に入らないだろうと思っているから、それをぶつけてこそのコミュニケーションだろと思っているわけですね。お互いに気を遣いあうよりも、本音をぶつけ合うのが真のコミュニケーションだ、という思想は一理あるし共感もできます。一方でそれも一つの見方でしかなく、オブラードに包んだ「聲」もまた、そうあろうとする優しさだとか思いやりだとかは紛れもない本物なのだから、表面上の言葉以上に伝わるはずだ、という考え方もある。要は、植野の主張もまた一つの正義でしかないのだけど、それが唯一絶対のものだと疑わない独善性が硝子との間に平行線を生んでいたのですね。明確な対比関係にある中で、将也に対してついぞその想いを告げることのなかった植野と、伝わらなかったけれど「好き」と言えた硝子、というその一点においては逆転した構図になるというのも味わい深いものがあります。

 将也と硝子の相対関係にある人物として見る植野の良い所を挙げると、自分の嫌な所を認めつつも他人も悪いとふてぶてしくも口に出来てしまう所だと思うんですよね。「俺が全部悪い」という勝手に全責任を背負い込む将也に「その理屈は嫌い」と言う植野は、いじめた側でありながら硝子によって自分たちも被害を受けたのだと主張する。
 一応断っておきますが、これは是非の話ではなく、将也が橋の上で他者を傷付ける言葉を吐き出したように、それが必ずしも嘘偽りのない本音ではないとしても、モラルによって蓋をされ見ないフリをしていた感情を臆面もなく口にするのが植野のやり方だし、自分の殻に閉じこもってしまった将也と対比すると彼女は彼女なりに一貫して誠実に周囲とコミュニケーションを取り続けてきたわけです。伝わらない人には何度言っても伝わらないとは思うけど、これは是非の話ではない。

 その上で、植野と硝子の関係性がどのように着地したか、という点が重要になるわけです。
 自分はお前に酷いことをしたけど、お前も自分たちに害をもたらした、だからこっちは殴るけど、文句あるだろうからお前も殴ってこい、というのが蛮族系女子植野の硝子に対して一貫して伝えてることだと思うんですが、それを理解した上で「私も私が嫌い」と硝子が言うもんだからまるで噛み合わない。いくら周りがもっと負の感情も出せよと言っても、「ごめんなさい」と口にし続け、笑顔で近づこうとするのが硝子の歪んでいる所で、彼女が明確に攻撃性を見せたのは小学校の時に将也と取っ組み合った時だけ。逆に言えば、自罰的な感情が強いことに間違いはないにしても、硝子にもちゃんと他者に対する鬱屈とした感情はあるということ。それでも、それ以降は他者に対して決して敵意は向けないというのが彼女の選択であり、植野とは真逆であるにしても一貫した彼女なりの誠意なんです。
 どれだけ悪意をぶつけても、暴力を振るっても硝子は植野に反撃せず、雨に濡れる彼女に傘を差した。その結果、植野はついに「あんたはそういう奴だ」と自分とは違う硝子のことを認めます。「ばーか」という、敵意と呼ぶにはあまりにも可愛らしい言葉を伝える植野が見せた手話に、めちゃくちゃ嬉しそうに「ばーか」と返す硝子。
 硝子のためのコミュニケーションツールが、植野のコミュニケーションメソッドによって行使されるという、両者の歩み寄りを感じさせる素晴らしいシーンでした。

 さらっと行きたいとか冒頭に書いておいてこんな長さになっちゃいましたが、まだ一番大事な西宮結弦のことを語っていないという事実。
 アイツに関しては外見、正確、年頃とあらゆる面において性の間にある存在であり、また硝子の身内でありながら橋のメンバーの中で唯一の年下であるという越えられない壁がある故に傍観者になるしかないという側面(カメラはその象徴)と、とにかく過渡期にある人物として他の人物とは一線を画すエモみを感じました。悠木碧の演技、立花響から知ってずっと魅せられてるけど、マジで年々凄味を増してきてませんかね......?
 映画を2回見て、2回とも唯一泣いたシーンである、おばあちゃんの葬式会場で佇む結弦と、彼女から硝子へと渡るようにひらひらと舞う蝶の描写は、説明を排する山田尚子監督のエッジの利いた演出が得も言われぬ叙情性を産みだした、この映画の個人的ハイライトです。
 硝子のために生き物の死骸を撮り続けて、死骸の跡を写した写真が硝子の手によって復学への切っ掛けとなり、そして最後には空を舞う2羽の鳥をファインダーに収める。本作は姉を見守り続けた西宮結弦が、その飛翔を見届け自分の人生を歩むまでの物語でもあったのだと思います。今年度ベスト級の人物でした。


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