その他
刀使ノ巫女 感想
自由を忘れた 鳥籠の中から
飛び出す きっかけ
先日無事に最終回を迎えた本作。なんとはなしに見始めましたが、物語が終盤に差し掛かるにつれて、その作劇の妙、構成の見事さにすっかり魅了されてしまいました。
最大の特徴は実際の剣術流派の使い手としてデザインされた刀使と呼ばれるキャラクターたちの造形。3DCGによって再現された数々の剣技は、虚構の嘘で味付けされてはいても、アニメーションらしい外連味を抑えた独自の映像を演出しており、特に気合の入った話数での殺陣は他に類を見ない新鮮なインパクトを与えてくれました。動きが早すぎて目が追いつかないのが玉に瑕。
しかしその真価は、むしろキャタクター描写への貢献にあります。それぞれ割り振られた剣術流派は、構えから戦術に至るまで、見た目にもはっきりと違い、それが各々の性格を表したものになっています。たとえば、主人公・衛藤可奈美が使う柳生新陰流は、相手をよく見てあらゆる剣に対応するものであり、それが彼女自身の在り方に反映されています。
そういった性質から派生して、本作では剣の立ち会いを以て他者の理解のきっかけとする、つまり『対話』の手段として剣術が設定されており、最初から最後まで作劇の要になっていました。
誰に切っ先を向け、どういった立ち回りをし、如何に切り結ぶのか。
「先を取るか後を取るか」という選択ひとつとっても、その時のキャラクターの心情を如実に表す『芝居』として成立する、徹底された作劇が多様な人間ドラマの構築に最大限活かされているのです。
さて、そういった独特の作劇で紡がれた本作の物語はどういうものなのか。
取り零しが起こることを承知で一言にまとめると『孤独の救済』を描いた物語だったと思います。主人公たちが対峙する相手「荒魂」は原初の感情として「寂しさ」を持っており、それは大なり小なり形を変えて登場人物それぞれが等しく抱えているものである、という構造が物語の進展に応じて明らかになっていくからです。
そもそもの物語の始まり、もうひとりの主人公(便宜上こう呼ぶ)である十条姫和の叛逆はかつて母を喪った出来事に起因しており、彼女は寂しさや怒り、憎しみといった私怨の感情を使命感に変えて物語を駆け抜けていく人物なんですね。そんな彼女に寄り添って逃避行を始めるのが、同じ様に母を亡くし、剣術によって寂しさを埋めてきた可奈美。この二人の関係性を基軸に、徐々に広げられていく縁の輪。人との繋がりを知った姫和の、死に際の母にかけられた呪いが、駆け抜けた果てで死後の母によって解かれるという、物語のテーマを示す縦軸の構成美。
素晴らしいのが、人の孤独に寄り添う可奈美自身が、誰にも言えない寂しさを隠し持っている点で、だからこそ彼女の情けは人の為ならず、優しくて友達思いだけど、冷たくて自分勝手と称される人物造形となっているわけですね。可奈美の孤独は大きく分けてふたつあり、ひとつは姫和と同じ母を喪った寂しさ。もう一つは、いわゆる強者の孤独というやつで、その双方は彼女が夢の中で会える師匠、隠世に残されたかつての母・美奈都によって密かに補われてきました。そうやって密かに積み上げられてきた可奈美の内面が、一気に表出した21話は非常にエモーショナルなドラマになっていました。
そして可奈美が持つふたつの孤独は、最終話において姫和と同じ様に、やはり母親の手で開放されるわけですね。可奈美と姫和を表す比翼の鳥、タキリヒメが視たどこまでも飛んでいく姿とは、すなわち巣立ちを示す親離れであり、季節は巡ってまた同じ場所に帰ってきたのです。
自由を忘れた鳥籠の中から飛び出すきっかけ、それが運命の出会いであったことに、疑問を挟む余地はないでしょう。
『親を亡くした子』という構図は、荒魂の起源として語られる、珠鋼から分離されたノロと共振するもので、だからこそ物語を通して「荒魂との共存」が問われていきます。この様に、別々の存在・別々の立場に置かれた者たちは、実は根底に共通する「寂しさ」を抱えていたことが明らかになっていく。その上で、それぞれの価値観があり、変化や成長があり、描かれる物語があるわけですね。共通のテーマがあるからこそ描かれる多様性、私の好きなタイプの群像劇です。
反復と対比の積み重ねこそが物語にダイナミズムを生む、というのが私の持論、というか嗜好ですが、本作でもそれぞれの立場や行動が、人物を変えて繰り返し描かれていきます。
最もわかりやすいのは、胎動編(1クール目)での可奈美と姫和に呼応するように、波瀾編(2クール目)で逃避行をする姿が描かれた紫様とイチキシマヒメ。可奈美と紫様がそれぞれ他方の心を開いた場所が似たような小屋の中であり、姫和とイチキシマヒメが融合する顛末まで含めて鮮やかな対比・反復描写であると言えるでしょう。
姫和がかつての紫様と同じ立場に置かれることによって、彼女の呪いが解かれるピースが一つ揃うのは、可奈美と紫様がそれぞれ新旧世代の英雄たる所以を端的に指し示し、また「イチキシマヒメ≒タギツヒメ≒荒魂」の根源的な寂しさに姫和が理解を示すきっかけにもなり、親子世代に絡めて紫様からタギツヒメにまでつながる縁を成立させる意味でも非常に巧みな展開であり、物語における最大のターニングポイントだったと思います。
その他も多くの登場人物の物語が描かれている中で、全部語り始めるとキリがないので、可奈美と姫和関連に絞ってここまで描いてきましたが、どうしても外せない人物がふたりいます。刀使ノ巫女オタクなら大体お察しのことでしょうが、折神紫親衛隊に席を置く、燕結芽と皐月夜見を語らずして、この物語を紐解くことはできません。
『孤独の救済』をテーマとして掲げたのが本作だとするのなら、最後まで孤高を貫き、そして物語中で死を迎えたただ二人の人物である彼女らが、ある種のアンチテーゼを背負っていたのは間違いないでしょう。
燕結芽と皐月夜見の共通点は、荒魂を自身の中に受け入れることによって居場所を得ることができたこと。しかし、そのスタンスは真逆であり、結芽は自分自身のすごさを証明するため戦闘においては一切荒魂の力を使わず、一方の夜見は自らの体を切ることで荒魂を使役します。この差をして、「寂しさに抗い続けた結芽」と「寂しさを飼い慣らした夜見」の対比であると私は見ています。
さて、荒魂≒ノロを人体に投与する実験は作中でも非人道的なものとして描かれており、研究に協力していた相楽学長はそれを己の罪だと称し、「過ち」と断じました。しかし、そんな彼女に対し、夜見は言外に結芽の存在を示唆しつつ「この道を選んだのは私自身」と微かな苛立ちを湛えた口調で語ります。
たとえ歪んだ道であっても、舞台に上がることができたのならそこに幸せはあった。これは夜見の価値観であり、結芽の人生を称してそう語ることは結局彼女の願望であり決めつけでしかないわけですが、一抹の真実を含んでもいます。
荒魂がなければ、結芽は誰にも自分の存在を刻みつけられずこの世から去っていた。
荒魂がなければ、夜見は御刀に選ばれず何も果たせないまま刀使の世界を去っていた。
できる限り多くの人に自分のことを覚えていてもらいたかった結芽と、たった一人だけに自身の忠義を捧げられればそれで良かった夜見。ここでも対比されるものはありつつも、やはり本質的には同一の道に居る存在だったのだと思います。
荒魂を、つまりは「寂しさ」を受け入れることで、一人であっても彼女たちは生きた。それが幸福な生であったかどうかは推し量ることはできないけれど、「生きた」ことだけは誰にも否定できない真実であり、だからこそ彼女たちの物語はきちんと死に終わる形で描かれたのだと思います。物語の光が落とした影を司る人物として、その生をも肯定してみせたからこそ、本作は名作足り得るのです。
間違った道を歩んだ者たちの人生をも肯定したように、様々な価値観・在り方を最終的には肯定してみせたアニメ『刀使ノ巫女』。私はそれを多様性だと考えていますが、コミュニケーション劇として見た場合の本作は、それがゆえに「人はわかり合えない」というひとつの思想がベースにあり、だからこそ私の心にここまで深く突き刺さったのだと思っています。
剣の立ち会いが『対話』だからと言って、それが伝わるとは限らない。理解と不理解を繰り返して、少しずつ互いを知る。けれど変わっていくものもあれば変わらないものもあって、最終決戦を控えた可奈美と姫和は心を通わせたはずなのに、それでもあるいはだからこそ自分自身を貫いて互いに嘘を吐きます。
性格も価値観もまるで違う相手だからこそ求め合い、半分を持ち合い、そしてそれぞれのやり方で同じ道を歩むことができた可奈美と姫和の在り方は、「わかり合えない」ことへの希望に満ちており、それが現在を少しずつ彩っていくのだということを、過去から未来まで見据えたスケールで見事に描ききった本作のラストに、ただひたすらに心震わせられました。
2クールアニメの新たな金字塔、2018年を代表する作品として、私の脳裏に刻みつけられました。ありがとう、刀使ノ巫女。
飛び出す きっかけ
先日無事に最終回を迎えた本作。なんとはなしに見始めましたが、物語が終盤に差し掛かるにつれて、その作劇の妙、構成の見事さにすっかり魅了されてしまいました。
最大の特徴は実際の剣術流派の使い手としてデザインされた刀使と呼ばれるキャラクターたちの造形。3DCGによって再現された数々の剣技は、虚構の嘘で味付けされてはいても、アニメーションらしい外連味を抑えた独自の映像を演出しており、特に気合の入った話数での殺陣は他に類を見ない新鮮なインパクトを与えてくれました。動きが早すぎて目が追いつかないのが玉に瑕。
しかしその真価は、むしろキャタクター描写への貢献にあります。それぞれ割り振られた剣術流派は、構えから戦術に至るまで、見た目にもはっきりと違い、それが各々の性格を表したものになっています。たとえば、主人公・衛藤可奈美が使う柳生新陰流は、相手をよく見てあらゆる剣に対応するものであり、それが彼女自身の在り方に反映されています。
そういった性質から派生して、本作では剣の立ち会いを以て他者の理解のきっかけとする、つまり『対話』の手段として剣術が設定されており、最初から最後まで作劇の要になっていました。
誰に切っ先を向け、どういった立ち回りをし、如何に切り結ぶのか。
「先を取るか後を取るか」という選択ひとつとっても、その時のキャラクターの心情を如実に表す『芝居』として成立する、徹底された作劇が多様な人間ドラマの構築に最大限活かされているのです。
さて、そういった独特の作劇で紡がれた本作の物語はどういうものなのか。
取り零しが起こることを承知で一言にまとめると『孤独の救済』を描いた物語だったと思います。主人公たちが対峙する相手「荒魂」は原初の感情として「寂しさ」を持っており、それは大なり小なり形を変えて登場人物それぞれが等しく抱えているものである、という構造が物語の進展に応じて明らかになっていくからです。
そもそもの物語の始まり、もうひとりの主人公(便宜上こう呼ぶ)である十条姫和の叛逆はかつて母を喪った出来事に起因しており、彼女は寂しさや怒り、憎しみといった私怨の感情を使命感に変えて物語を駆け抜けていく人物なんですね。そんな彼女に寄り添って逃避行を始めるのが、同じ様に母を亡くし、剣術によって寂しさを埋めてきた可奈美。この二人の関係性を基軸に、徐々に広げられていく縁の輪。人との繋がりを知った姫和の、死に際の母にかけられた呪いが、駆け抜けた果てで死後の母によって解かれるという、物語のテーマを示す縦軸の構成美。
素晴らしいのが、人の孤独に寄り添う可奈美自身が、誰にも言えない寂しさを隠し持っている点で、だからこそ彼女の情けは人の為ならず、優しくて友達思いだけど、冷たくて自分勝手と称される人物造形となっているわけですね。可奈美の孤独は大きく分けてふたつあり、ひとつは姫和と同じ母を喪った寂しさ。もう一つは、いわゆる強者の孤独というやつで、その双方は彼女が夢の中で会える師匠、隠世に残されたかつての母・美奈都によって密かに補われてきました。そうやって密かに積み上げられてきた可奈美の内面が、一気に表出した21話は非常にエモーショナルなドラマになっていました。
そして可奈美が持つふたつの孤独は、最終話において姫和と同じ様に、やはり母親の手で開放されるわけですね。可奈美と姫和を表す比翼の鳥、タキリヒメが視たどこまでも飛んでいく姿とは、すなわち巣立ちを示す親離れであり、季節は巡ってまた同じ場所に帰ってきたのです。
自由を忘れた鳥籠の中から飛び出すきっかけ、それが運命の出会いであったことに、疑問を挟む余地はないでしょう。
『親を亡くした子』という構図は、荒魂の起源として語られる、珠鋼から分離されたノロと共振するもので、だからこそ物語を通して「荒魂との共存」が問われていきます。この様に、別々の存在・別々の立場に置かれた者たちは、実は根底に共通する「寂しさ」を抱えていたことが明らかになっていく。その上で、それぞれの価値観があり、変化や成長があり、描かれる物語があるわけですね。共通のテーマがあるからこそ描かれる多様性、私の好きなタイプの群像劇です。
反復と対比の積み重ねこそが物語にダイナミズムを生む、というのが私の持論、というか嗜好ですが、本作でもそれぞれの立場や行動が、人物を変えて繰り返し描かれていきます。
最もわかりやすいのは、胎動編(1クール目)での可奈美と姫和に呼応するように、波瀾編(2クール目)で逃避行をする姿が描かれた紫様とイチキシマヒメ。可奈美と紫様がそれぞれ他方の心を開いた場所が似たような小屋の中であり、姫和とイチキシマヒメが融合する顛末まで含めて鮮やかな対比・反復描写であると言えるでしょう。
姫和がかつての紫様と同じ立場に置かれることによって、彼女の呪いが解かれるピースが一つ揃うのは、可奈美と紫様がそれぞれ新旧世代の英雄たる所以を端的に指し示し、また「イチキシマヒメ≒タギツヒメ≒荒魂」の根源的な寂しさに姫和が理解を示すきっかけにもなり、親子世代に絡めて紫様からタギツヒメにまでつながる縁を成立させる意味でも非常に巧みな展開であり、物語における最大のターニングポイントだったと思います。
その他も多くの登場人物の物語が描かれている中で、全部語り始めるとキリがないので、可奈美と姫和関連に絞ってここまで描いてきましたが、どうしても外せない人物がふたりいます。刀使ノ巫女オタクなら大体お察しのことでしょうが、折神紫親衛隊に席を置く、燕結芽と皐月夜見を語らずして、この物語を紐解くことはできません。
『孤独の救済』をテーマとして掲げたのが本作だとするのなら、最後まで孤高を貫き、そして物語中で死を迎えたただ二人の人物である彼女らが、ある種のアンチテーゼを背負っていたのは間違いないでしょう。
燕結芽と皐月夜見の共通点は、荒魂を自身の中に受け入れることによって居場所を得ることができたこと。しかし、そのスタンスは真逆であり、結芽は自分自身のすごさを証明するため戦闘においては一切荒魂の力を使わず、一方の夜見は自らの体を切ることで荒魂を使役します。この差をして、「寂しさに抗い続けた結芽」と「寂しさを飼い慣らした夜見」の対比であると私は見ています。
さて、荒魂≒ノロを人体に投与する実験は作中でも非人道的なものとして描かれており、研究に協力していた相楽学長はそれを己の罪だと称し、「過ち」と断じました。しかし、そんな彼女に対し、夜見は言外に結芽の存在を示唆しつつ「この道を選んだのは私自身」と微かな苛立ちを湛えた口調で語ります。
たとえ歪んだ道であっても、舞台に上がることができたのならそこに幸せはあった。これは夜見の価値観であり、結芽の人生を称してそう語ることは結局彼女の願望であり決めつけでしかないわけですが、一抹の真実を含んでもいます。
荒魂がなければ、結芽は誰にも自分の存在を刻みつけられずこの世から去っていた。
荒魂がなければ、夜見は御刀に選ばれず何も果たせないまま刀使の世界を去っていた。
できる限り多くの人に自分のことを覚えていてもらいたかった結芽と、たった一人だけに自身の忠義を捧げられればそれで良かった夜見。ここでも対比されるものはありつつも、やはり本質的には同一の道に居る存在だったのだと思います。
荒魂を、つまりは「寂しさ」を受け入れることで、一人であっても彼女たちは生きた。それが幸福な生であったかどうかは推し量ることはできないけれど、「生きた」ことだけは誰にも否定できない真実であり、だからこそ彼女たちの物語はきちんと死に終わる形で描かれたのだと思います。物語の光が落とした影を司る人物として、その生をも肯定してみせたからこそ、本作は名作足り得るのです。
間違った道を歩んだ者たちの人生をも肯定したように、様々な価値観・在り方を最終的には肯定してみせたアニメ『刀使ノ巫女』。私はそれを多様性だと考えていますが、コミュニケーション劇として見た場合の本作は、それがゆえに「人はわかり合えない」というひとつの思想がベースにあり、だからこそ私の心にここまで深く突き刺さったのだと思っています。
剣の立ち会いが『対話』だからと言って、それが伝わるとは限らない。理解と不理解を繰り返して、少しずつ互いを知る。けれど変わっていくものもあれば変わらないものもあって、最終決戦を控えた可奈美と姫和は心を通わせたはずなのに、それでもあるいはだからこそ自分自身を貫いて互いに嘘を吐きます。
性格も価値観もまるで違う相手だからこそ求め合い、半分を持ち合い、そしてそれぞれのやり方で同じ道を歩むことができた可奈美と姫和の在り方は、「わかり合えない」ことへの希望に満ちており、それが現在を少しずつ彩っていくのだということを、過去から未来まで見据えたスケールで見事に描ききった本作のラストに、ただひたすらに心震わせられました。
2クールアニメの新たな金字塔、2018年を代表する作品として、私の脳裏に刻みつけられました。ありがとう、刀使ノ巫女。
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