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シャニマス

アイドルマスターシャイニーカラーズ『ストーリー・ストーリー』感想 生きてることは、物語じゃない

 優しさを抱き締めて
 向かい風の向こうへ



 サービス開始から2周年を迎えたシャニマス。
 1年前、ストレイライトという新たなユニットが鮮烈なデビューを果たし、徐々に描かれる世界の解像度と、そこに生きるアイドルたちの切実さは鋭利さを増すように磨き上げられてきた。
 イルミネーションスターズ。放課後クライマックスガールズ。アルストロメリア。
 各ユニットがその在り方を揺さぶられ、惑い、その果てに自らの再定義を果たすかのような、傑作エピソードが連発されてきた中で、やってきたのは待望のアンティーカ。
 結論から言えば、今までで最も「エグい」物語になっていたのではないだろうか。

「エグい」というのは、何も番組側の言動に容赦がない、ということではなくて、そもそもの物語構造の話。
 今回アンティーカが挑戦するのはTV番組企画『グッドラフ・テラス』。「笑顔」が基本、「涙」はご法度の共同生活を送る彼女たちの模様を映しだす”リアリティ”・ショー。もう設定だけで最高に趣味が悪くて笑顔になっちゃうんですが、ここにメタ構造の肝がある。
 この舞台設定はそのまま、シャニマスというコンテンツを需要し受容しているプロデューサー(プレイヤー)にも掛かってくる。アイドルたちの笑顔、すなわち夢や希望を望みつつも、我々はそれだけでない、彼女たちの涙、すなわち苦悩や悲哀をも潜在的に求めてしまっている、という構図への指摘。
 ただの笑顔ではなく、迷い苦しんだあと、雲が晴れた先に見える希望。イベントコミュの傾向がどんどんそういった方面へと先鋭化していくのは、それだけでないにしても、ユーザーの需要が反映された方針であるのではないか、という邪推もそう的外れではないのではないでしょうか。
 まあ、他の人は知らないけど、少なくとも私がシャニマスに期待しているのは間違いなくそれです。

 アイドルというのは、どう言い繕っても「少年少女の青春を消費する」産業である側面からは逃れられず、シャニマスが視座をちゃんと持っていることは『Star n dew by me』辺りから疑っていなかったけど、今回はついにそれを正面からテーマにしてきたな、という印象。
 露骨な性消費描写をやっちゃうと物語としては露悪が勝ち過ぎるので、アイドルたちの心情を一切考慮しない業界人を出すことでその辺を表現するの、マジで巧い。
 

 さて、ただただ純粋に共同生活を楽しみにしていたアンティーカの面々だけど、これは番組。いくら当人たちが楽しく過ごしてようが、どれだけ互いを思いやっていようが、数字が取れなきゃ意味がない。
 世間が求めているのは何でもない日常なんかではなく、劇的で刺激的な『ストーリー』であるという現実が、徐々に彼女たちを蝕んでいく。
 いち早く打ち切りの危険性を知り、「仲間のために」奮起する摩美々、咲耶、霧子の高校生組が選んだのは、TVバラエティの真似事だ。微笑ましくも浅ましい少女たちの努力は、番組スタッフに一笑に付せられる。
撮れ高があれば使うし、無かったら使わない。番組側のロジックは至ってシンプルで、大物に取って代わられそうになるのも、自主的に撮影した映像が採用されないのも、ある意味ではアンティーカの実力不足で、もっと言ってしまえば彼女たちがバラエティをナメていた結果だ。
 そして『そのままでは使えない』アンティーカの現状は、番組スタッフによって最悪な形でパッケージングされる。舞台裏で見るアイドルたちの素顔、というフィクションとして歪められた彼女たちの実像は、容赦なく世間によって消費されていく。意外性があって、一部の欲望をくすぐって、センセーショナルな虚構は、刺激的な物語であるがゆえに、ポスト・トゥルースとして独り歩きしていく。
 文脈を無視した切り取り、恣意的な編集。メディアに出て、衆目に晒されるというのは、常に誰かに都合よく消費される危険性と隣り合わせであり、極端に言ってしまえば「ありのままの自分たち」を見てもらえる場ではないのだ。
 ショービズにおけるリアリティとは、リアルそのものではなく、最大公約数的なテンプレートのことであり、『裏ではギスギスした体育会系アイドルグループ』というラベリングを以って、アンティーカは番組商品として提供された。
 しかし、である。そもそも彼女たちが望む『リアル』とは、なんなのだろうか。


 私もまだまだ彼女たちの事をよくは知らない、と一応断った上で言えば、アンティーカは各々が役割を演じることによって回るユニットである、という認識を持っている。
 最もわかりやすいのは王子様ロールを主とする咲耶だが、悪い子を自称する摩美々、TPOに応じて場を盛り上げたり、逆に締めたりもできる三峰もそうだ。霧子はマジで分かんないんで勘弁してください。そして、ただひとり素のままで皆を引っ張っていける恋鐘がセンターになっている、というイメージだ。
 何のことはない、彼女たちはアイドルである以前に、既に仮面を被っているのだ。でもそれは、彼女たちなりの生存戦略であり、特別なことではないことを、何となくで追っていた私でも知っている。
 きっと多くの人は、そうやって自分を演出して、大なり小なり見せたい虚像を身に纏っている。ただ、それは決して自分を『偽る』ためではないのだ。
 咲耶も、摩美々も、三峰も。自らの役割を演じてはいるけれど、それによって居心地の良い空間を作り上げている。演じることは、ただの手段であって、目的ではないのだ。そこを履き違えていたのが感謝祭における咲耶であり、今の彼女は自らの役割に囚われずちゃんとメンバーに相談することができる。摩美々も三峰も、必要であれば普段の役割を放棄できる。
 誰かが誰かの役割を演じていても、各々の根底にある優しさを皆が感じ取っている。みんながお節介、それがアンティーカの『リアル』である。
 彼女たちの失敗は、そのための「演じる」という手段を、「数字を取る」という番組側の目的に合わせてしまったことだ。その結果、いつもと違うことをしたために生まれたわずかな歪みは、メディアを通して増幅して発信されることになった。
 飛躍があったとしても、きっかけはあくまでも自分たちなのだ。ファンが見られるのはアイドルたちが見せる顔のほんの断片だけであり、行間は想像と欲望によって埋められて、勝手な物語が作り上げられる。
 だからこそ、何を見せて、何を見せないのかが重要なのだ。自分たちの『リアル』を見せるためには、目に見えない行間すらも計算して、虚構を作り上げなければならない。矛盾するようだが、虚構を通じて魅せる真実こそが、偶像すなわちアイドルなのである。

 その証左となるのが、月岡恋鐘のワンシーンである。
 番組の編集によって実像が歪められ、「三峰こそがセンター」という様なユニットの根底をも揺るがす意見がファンの間から吹き上がり、さらなる誤解を恐れて身動きが取れなくなったアンティーカの中で、ただひとり恋鐘だけが、その家において自分に割り振られた役割を放棄しなかった。
 恋鐘だけが素のままで皆を引っ張っていける、と先に書いたが、だからと言って何も考えていないわけではない。毎日5人分の食事を作り、部屋に籠もった皆を呼び出し、いつもの明るい笑顔で迎え、そして一度カメラの目から逃れることを提案する恋鐘は、置かれた状況など意に介さない強靭な精神力でメンバーを見事に支えた――ように見える。
 けれど、そうではないのだ。三峰の部屋から聞こえた、調理中であろう恋鐘が何かしらの失敗をしたかのような異音。そう、彼女だって、当たり前に動揺しているのだ。
 その動揺を、間接的に示しつつも、直接は描かなかったことに今回の肝があるように思う。
 恋鐘は内心の動揺を最後まで隠し、気丈であり続けた。皆に決して弱みを見せなかった。彼女はアンティーカの絶対的センターにしてリーダーであるアイドル『月岡恋鐘』を見事に演出してみせたのだ。
 
 その在り方ひとつでアイドルの何たるかを表現してみせた恋鐘を筆頭に、アンティーカは自らがやるべき事を思い出す。自分たちを表現するために、役割を演じて、物語を作る。虚構を通して自分たちのリアルを作る。
 それは日常で、あるいは仕事で、彼女たちが今までやってきたことだ。
 斯くして彼女たちは、リアルタイム試験勉強ドラマという形で『体育会系ユニット』のイメージからの軌道修正を試み、自分たちのやり方で数字が取れるアイドルグループ『アンティーカ』の商品価値を番組側にも認めさせることができた。


 今回のイベントコミュをまとめると、自分たちが消費される存在である『アイドル』という商品である、という自覚を持つに至ったアンティーカが、どう消費されるかを自分たちで選ぶことができる、という気付きを得るまでの物語、と言えるだろう。
 最初に述べたように、それはアイドルという職業のグロテスクな側面を、マイルドにしつつもしっかりと捉えている。
 暖かくも冷たくもない、無機質な世界の中で、それでも前を向いて生きていく少女たちの物語として、近年のシャニマスが示す方向性に沿う作劇だったと思う。
 しかし、だからこそ最後に示されたメッセージ性は鮮烈だ。

 生きてることは、物語じゃないから。

 『自分の人生という物語の主人公はあなた』という様なよく聞く標語とはまるで逆の響きだが、文脈を踏まえればアンチテーゼと捉えるのは早計と思う。
 アイドルである以上、自分たちはこれからも、物語として消費される。それでも、アイドルである以前、ひとりの人間である彼女たちの人生そのものは、何者にも消費されない。そこに虚構でも、演出でもない、本当のリアルがある。
 だから、カメラの外でも嘘じゃないストーリーにしたい、という摩美々の言葉も本質的には同じで。
 ファンも知らない、番組スタッフも知らない、画面の外のPも知らない、物語にならない空白の時間の中であっても、彼女たちは確かに生きているのだと。見る者には特別に映る、当人たちにとってはただの日常を、これまで見せ続けたきたアンティーカというユニットだからこそ、その実在性という虚構性を、表現できたのだと。
 少なくとも私は、そう思いました。
 おしまい。


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