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アニメを中心に、漫画や映画、小説など創作物の感想を載せるブログです。

シャニマス

アイドルマスターシャイニーカラーズ『天塵』感想 夜光虫が生まれた日

君の青い車で海へ行こう おいてきた何かを見に行こう


 先日めでたく2周年を迎えたアイドルマスターシャイニーカラーズ。
 そこで登場した新たなアイドルユニット『ノクチル』は幼馴染4人組。
 足並みも、能力も、価値観も、考え方も、何もかもが違っても、好きも嫌いも越えて当たり前に一緒にいる。
 そんな彼女たちが見せた決して一筋縄ではいかない在り方は、今までのどのユニットとも違う異彩の輝きに満ちていた。

 ノクチルの初仕事となった生配信番組。
 そこで起こった出来事は、彼女たちの実像が歪められて伝えられるという意味で、(作中でも比べる形で言及されたこともあり)『ストーリー・ストーリー』におけるアンティーカと対比して語られる向きもある。
 しかし、ノクチルとアンティーカがそれぞれ直面した壁に対して取った行動はある側面では同じである。すなわち、「いつも通りの自分たち」を演じるということだ。決定的に違うのはむしろ業界側がアイドルに求めるものの方で、アンティーカはリアリティ・ショーとして数字の取れるストーリーを期待され、それに応える形で自分たちのやり方を通して見せた。
 一方、ノクチルは番組のメインではなく新人枠として十把一絡げに扱われただけで、そこに『個』は求められてはいなかった。いや、『浅倉透』というひときわ目を引くアイコンだけが求められ、他の3人はその付属物として、透明な存在として扱われた。
 あえて引き合いに出すなら、近いのはむしろ感謝祭におけるイルミネーションスターズだろうと思う。彼女たちは前へ進もうという意志を否定され、「未熟であるがゆえ愛される存在」であるべきだと告げられた。アイドルへかけられる期待の中には、愛玩される少女性への侮りが見え隠れする場合がある事を、鮮烈に描いたエピソードだった。

 一体なぜシャニマスがこういったアイドルを取り巻く業界の不条理を繰り返し描くのかと言えば、アイドルがそういう存在だからに他ならない。『偶像』たる彼女たちはメディアを通して消費される商品であり、求められる姿勢や役割、振る舞いがある。そこからの逸脱は許されず、ある程度定められたパッケージに最適化する形で、アイドルたちは自分たちを売り出さなければならない。シャニマスのアイドルたちもまた、そんな世界でいかに自分たちの『個』を殺さずに生きていくのか、各々の闘い方を見付けてきた。
 不条理であっても世界は敵ではないがゆえ、上手く乗っかれば当然アイドルとしての躍進、あるいは自己実現を果たすこともできる。それはそれでまた別種のアイデンティティクライシスが生じ得ることも千雪のGRADコミュで描いていたりするが、それはまた別の話。
 とにかく、いかに不条理に立ち向かうか、その答えは十人十色であり、絶対の正解はない。それが多様性として、シリーズの強みにも繋がってるように思う。そしてその最新鋭となるノクチルは、およそ初めてその構造自体に中指を突き立てるアイドルユニットとなった。
 予め断っておくが、あの番組におけるノクチルの所業が正しいものだったとは思わない。しかし、手段が正しくなくても、その怒りは正当なものであったという事は言っておかなければならない。
 当たり前だが、ノクチルは何も初めから番組をぶち壊そうとしていた訳ではない。梯子を外したのは、あくまで番組側の方だ。そも、番組とその出演者とでは、よほどの大御所でなければ圧倒的に前者の方が立場が上であり、アイドルである前に人間である彼女たちへの扱いは、立派なハラスメントである。
 悲しいかな、強者による弱者への抑圧という構図は、メディアを通して容易にエンタメとして昇華されてしまう。如何にぞんざいな扱いを受け、失礼な事を言われても、ネタとして笑って受け流すのがメディアが求めるアイドルの振る舞いだろう。
 しかし、それによって傷付けられる個人の尊厳は、決して無視していいものではないはずだ。ノクチルの暴挙だけを槍玉に挙げて番組側の不義に目を向けないのは、あらゆるハラスメントへの消極的追認のように思える。(当然内情を知る由もない劇中ファンのことではない)
 周囲に迷惑を掛けるなという論調も、正当な手順での抗議は対等な立場でしか功を奏し得ない構造を無視した(現にPの抗議は無下にされる)権威側に絶対有利な詭弁ではないか。不当な扱いを受ける弱者の声がなんでも平和的に聞き届けられるなら、この社会にデモもストもないのだ。
 大分話が逸れたが、彼女たちがあの暴挙へ至った、その根っこにある動機に理解があればこそ、Pはそれを否定せず、形式ばかりの始末書で済ませたのだろう。(直接の描写はないが、さすがに衣装をびしょ濡れにした件ではないと思う)

 さて、「乗るか反るか」というシャニマスにおける闘いにおいて、思いっきり反ってみせたノクチルには当然、手痛いしっぺ返しが待っている。仕事が、無いのである。
 業界に忌避されるのも、SNSで面白半分に揶揄されるのも、彼女たちの行いに対する反応としては至極真っ当で、世間から観たらふざけて放送事故を起こした新人アイドルでしかない。
 0どころかマイナス地点に至ったノクチルは、だからこそ幼き日に回帰しある疑問に立ち返る。わたしたちは何者で、どこへ行くのか。目指すべきビジョンもないまま、ただ乗せられたレールを外れてしまった彼女たちは、いったいどういうアイドルになるのだろうか。

 原風景、という言葉がある。心の奥底にある、その人の人格に大きな影響を与える原初の風景のことである。
 幼少の折、浅倉が口にした「4人で車を買って海へ行こう」という言葉。それが今でも、円香や小糸の脳裏にこべり付いており、アイドルという目標を見付けてしまった浅倉が、どこかへ行ってしまうのではないかという念が、「いつまでも4人一緒にはいられない」という潜在的な恐怖と結びついて、彼女たちを縛っていく。
 ここで面白いのは、当の浅倉本人はそんな事は覚えておらず、独自の異なる原風景を抱いていることだ。初めてPと出会った時に登った、ジャングルジム。浅倉の心象風景と化したそれは、運命の再会によってアイドルと結び付き、確かな目標として形を成すことになった。
 さらに私が注目したいのが、この文脈において異質な市川雛菜の存在である。他の3人が回想という形でそれぞれの原風景を想起するのに対して、彼女だけが「貯金箱あるよ」という即物的な形で在りし日の約束に言及するのだ。回想という形式が取られないことや、明確な終わりの存在を意識した発言の数々からも、彼女がノクチルで最も現実に立脚した物の見方をしている様に感じる。悲観的か楽観的か、ベクトルが違うだけで、円香と雛菜の現実認識度合いにそう大きな違いはないとは思うが、過去を引きずり未来を恐れる円香に対して、過去も未来も今のためにある雛菜の危うい強さの表れである様に思える。
「透ちゃんに、みんなに置いていかれる」と口に出した小糸に対して、「ずっと一緒にいられる」と恐らく本人が一番信じていないであろう優しい嘘を口にする円香も、「だから雛菜もどんどん行くよ」と強者の理論を臆面もなく振りかざす雛菜も、正反対であるがゆえにどちらも4人が4人でいるために必要な存在であることが伺えて、私はやっぱりひなまどが好きです。(これが言いたかっただけ)
 さて、どれだけ本人たちに踏み出したいという意志があっても、その指針を示せるのは、やはり4人のカリスマである浅倉透しかいないのである。それが分かっているから、彼女の意志を確認するため雛菜は部屋で待ち伏せていたし、先を越された円香は引き返した。
 Pにとってのジャングルジムがそうであったように、浅倉にとっての海はほんの些細な出来事でしかなかった。本人には何気ない一言が、誰かの胸に深く突き刺さることがある。そして、何気なく「行こうよ」と誰かに手を伸ばしてしまえる人間は、あえて言えば、やはり『特別』なのだろうと私は思う。
 Pが幼少の浅倉を覚えていないままアイドルというジャングルジムに再び誘ったように、浅倉もまたかつての約束を忘れたままにアイドルとして海へ行こうと口にする。それによって、心の奥底に仕舞い込まれた原風景は、確かな目標として浮かび上がってくるのだ。

 こうして、漠然と走り出した少女たちに、朧げながらも行くべき場所が見えた。4人でいるために、アイドルをやる。彼女たちの動機はどこまでも身勝手で、純粋だった。
 業界に阿らなければ、ファンの方を見ているわけでもない、内輪で閉じた関係性でアイドルをやろうというのは、なるほど確かに「なめている」のかもしれない。
 先に語った業界の求めるアイドル像は、何も一方的に定められたわけではない。需要がなければ供給はない。アイドルを見て、聴いて、応援するファンがいる。あるべき姿、然るべき振る舞い、アイドルに求められる不文律めいたルールは、彼らの共犯関係において確かに存在するのだ。
 予定調和の範囲内で、パッケージングされた商品を日々消費する、浅倉の言う「アイドルがいる人」は、きっとそんな所ではないだろうか。その枠に収められない強固な関係性こそが核となっているノクチルは、確かに異端児なのだろう。
 愛嬌を振りまき、和を乱さず、反抗しない。不特定多数に好かれるために行うべき努力をしていない。だから「がんばってない」「覚悟がない」という評価にも一定の理はある。ただ、外からの評価では小揺るぎもしない絶対的な価値を自分たちの関係性に認めているのが、コイツらが最高に厄介なところで、また魅力でもある。特に顕著なのが雛菜であり、彼女は自分たちが自分たちなりの覚悟を持っていることも、自分たちなりにがんばっていることも知っていて、自分への安易な他己評価にはたとえPが相手であっても鋭い反駁を返している。某ガンダムアニメの台詞を引用すれば、「それを決めるのはお前じゃないんだよ」といった所だろうか。
 もちろん、アイドルである以上、彼女たちが他者の視界から手前勝手に行われる評価に依存せざるを得ない存在であることもまた確かだ。だからこそ、駆け出しから躓いた彼女たちが、一体どういうアイドルになるのか、そのビジョンが必要なのである。

 アイドルをやる大層な理由なんてないまま、「行きたいから行く」と、やってきた海辺の花火大会。夜の空で華々しく咲く花火の下で、ノクチルのステージを見る観客は誰もいない。
 けれど、彼女たちにはそれで構わなかった。自分たちが最高のステージをやったことを、自分たちだけが知っている。花火なんぞに目を奪われて、もっと楽しいものを見逃したお前らはもったいないことをしたのだと、傲慢にも口にする。
 無鉄砲で、常識はずれで、行儀が悪くて、誰からも目を向けられなくなった、透明なアイドル。
 だけど彼女たちはひとりじゃなくて、4人だから、楽しかったのが決して自分だけでないことも知っている。ならきっと、4人だけのものでもない。たったひとり、Pの拍手がそれを証明している。
 ここで大きな意味を持ってくるのが、小糸のWING優勝コミュで語られた、「自分に居場所がないと思っている人たちの、居場所になれたら」という言葉だ。そのコミュのタイトルは、『ここにおいでよ』である。

 わたしたちは歩み寄らない、だけどわたしたちの輝きを持って、ここで勝手に光っている。
 群れからあぶれて、ふと暗い夜の海を見て、そこで淡く輝く光に惹かれて集まった人がいるのなら。4人だけの内輪は、もっと多くの人を取り込んで広がっていく。
 最初は小さな円でも、そうやってどんどん大きくなっていけば、やがて内と外は逆転する。

 ノクチルが道を外れ爪弾きにされた、あるべきアイドルが定められた「アイドルがいる人」の世界。けれどそれは、マスではあっても、決して全ではない。
 アイドルに求められる「らしさ」に違和感を覚える人はきっといるし、花火大会で花火に退屈を感じる人だってきっといる。なんとなく居心地の悪さを覚え、漠然とした疎外感を抱えた人たちは、世間では透明な存在として扱われているとしても、少なからず存在する。そんな人たちのための居場所になれるかもしれない。ノクチルが掴んだ《偶像》はきっと、そういうものなんだと思う。

 自分が変わらなくても、世界は勝手に変わっていく。
 一緒にいる理由なんて幼馴染であるだけで十分だったけど、時が流れれば日常は惰性へ、安心は不安へ、憧憬は焦燥へ、享楽は諦念へと姿を変えてしまう。ずっと変わらない関係でいるために、何かを変えていく必要があるという逆説。浅倉が走り出したから、雛菜も小糸も円香も、追いかけるように走り出した。
 そうして辿り着いた夜の海で、彼女たちは己の原風景を更新し、ただの幼馴染からアイドルユニット『ノクチル』へ、その関係性を再定義したのだと思う。これはそうやって、どこにだって行ける、なんだってできる、幼年期の頃のような、いつの間にか失っていた万能感をもう一度取り戻す、そんな物語だった。
 根拠なんて何もないのに、自分たちが自分たちである、ただそれだけで、確信できる輝きの正体。華やかな光が天を照らし、塵となって消える誰も目を向けない闇の中で、ひっそりと発光し始めた夜光虫の物語が、今ここから走り出した。


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アニバタ Vol.6アニバタ Vol.9に寄稿しました。よろしくです。


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