シャニマス
3年目のアイドルマスターシャイニーカラーズが描いている物語について
タイトル変えました。
わかりやすさ、大事。
2年目のシャニマスが、『個』があまねくこの世の不条理にぶつかった時、どのように折り合いを付け、あるいは闘っていくのか、もはや『生きて行き方』と言ってもいいものを見つけていくフェーズだったとする。
それらを乗り越えた3年目のシャニマスが、一体何を描く様になったのか。まあ一言でまとめる事自体が暴挙であるという感覚は拭えませんが、あくまで個人的に見出したテーマとして言うならば、『祝福』の物語である、という結論を先に掲げた上で、イベントメインで部分的に拾いながら語りたいと思う。
今年のシャニマスで、個人的に最も印象に残ってるのは、アイマス界の鉄華団あるいは麦わらの一味と言われたり言われなかったりする無限エモ製造機青春集団ノクチルの登場、は置いとくとして、イルミネーションスターズの存在感が一気に強まってきたことである。いや、お前の目が節穴だっただけだろと言われればそれまでですが……。
めぐるの事は元からトップクラスに好きだったけど、ここにきて真乃と灯織がめちゃくちゃ好きになった年だったなぁと、振り返って思うわけです。
実際問題、イルミネがこの2年間積み上げてきた繊細な関係性が、3年目のテーマとリンクして結実した年だったと思うわけですよ。
それを象徴するのがイベント『くもりガラスの銀曜日』。2年目に入って起承転結がハッキリとしたイベントコミュが増えてきた中で、明確なストーリーラインがないという一点を以て異質なコミュとなっている。情緒全振り自体はシャニマスの得意技だけど、丸々一本のイベントコミュでここまで特化したのは初めてでは?
空模様をスイッチにして、過去と現在を行き来しながら、イルミネの今の関係性が彼女たちが互いを知ろうと手を伸ばし続けてきた不断の意志によって形成されたものである、というのを如実に示したストーリー。
元ネタが追いきれないほどに、過去のコミュを参照しながら、些細なやり取りのひとつひとつが彼女たちだけの符牒となっていることが示されていく。その一つである『銀曜日』という言葉を、真乃は「偶然、気持ちが揃う日のこと」だと言う。
いつも仲が良くて以心伝心、知らない事なんてないんじゃないかと傍目には見える3人。だけど、当人たちにとっては、「一緒にいること」は当たり前なんかじゃなくて、星に手を伸ばす様につかみ取った奇跡であることを知っている。ハッピーアイスクリーム!
だから灯織も、何もかも全部分かりたい、伝えたいという願いを内に抱きつつも、そう思い続けることこそが大事なのだと前を向くのだ。
他方、『アジェンダ283』では自主的に始めたゴミ拾いが、いつの間にか事務所を挙げた一大イベントになってしまったことで、自分の意志を他者に押し付けてしまうのではないか、という真乃のささやかな懊悩が描かれた。
ボランティア精神に基づいた課外活動には、なるほど確かに意図しなくても一種の強制力が働くこともある。けれど、ルールを設けず、楽しむことを第一義とするならば、あとは各々の自由である。真面目に環境問題に取り組んだっていいし、自己アピールのネタにしてもいい。ゴミを拾った良いし、サボって遊んだっていい。
ある目的を以て設けられた場において、何を思って何をするか、そしてどう楽しむのか。その有り様は千差万別で、人の数だけ違う視座と視界がある。ユニット間を渡り歩いてそれらを垣間見たイルミネ、そして真乃は、人が増えたことで、縦にも横にも広がった世界の実態を知るのだ。
白眉はEDで描かれた真乃と浅倉のダイアローグである。
浅倉透は内心を外部に出力するのが人一倍不得手な人物として設計されており、プロデュースを通して自他における自己表現度合いのギャップを認識した経緯を持っている。加えて、社会によって要請される『偶像』とのズレを自覚しているノクチルの一員であり、彼女たちは283プロ内でも他とは一線を画した位置づけに置かれている様子が描かれた。
真乃は輪から外れて、早々に河原から抜き出すノクチルを見て、意図せぬ同調圧力で彼女たちは嫌々参加しているんじゃないかと危惧していたし(コイツらはそんなタマじゃない、というのは神の視点での話である)、浅倉は浅倉で、自分たちがなんとなく浮いていることをなんとなく察していた。
その人がどんな人で、何を感じて、何が違うのかは、結局のところ話してみないと分からない。言葉は完全ではないから、全部は伝わらないし、全部はわからないけど、伝わらなくても分かること、分からなくても伝わることがある、というのをシャニマスはずっと描いてきた。
他のユニットに対してもそうだったように、ノクチルの輪に入ってみることで、真乃は彼女たちもちゃんとこの機会を楽しんでいてくれたことを実感することができた。ここで重要なのは、誤解していたのは真乃だけではなく、浅倉にとってもそうだった、ということ。自分たちは、みんなとはちょっと違っている。けれど、それは同じじゃないことを意味しない。
余計な空気を取っ払ってしまえば、きっと誰もがちょっとずつ違っている、当たり前のことだ。群れから離れた鯨は周囲を拒絶しているわけではないし、輪の中心に立つ鳩は真面目一辺倒の委員長ではない。違っているのが当たり前で、それでも一緒と思える奇跡があるから、バラバラの人間でも繋がれるのだ。
平和の白鳩と52ヘルツの鯨、彼女たちの邂逅が、3年目のシャニマスを最も象徴する出来事だったのだと、振り返って改めて思います。
さて、ここいらで改めて最初に提示した結論に立ち返ろう。シャニマスは3年目にして『祝福』のフェーズに入っている、という話である。
すなわち、「わたしとあなたは違う人間である」という自他の断絶性への祝福である。人は他人のことを、時には自分のことさえ、完全に分かることはできない。これは、おそらくはサービス開始当初からずっと描き続けていたことである。3年目に入ってようやく、それを大々的に
素晴らしいものとして描けるようになった、と言い換えてもいい。
違う人間だから、知らないから、分からないから。分かろうと悩むことができる、知ろうと手を伸ばすことができる、同じだねと笑い合うことができる。たったそれだけで、闇の中に光が射すことを、試練の時を経た彼女たちはもう知っている。そして、その分だけ世界は照らされ、視界は広がっていくのだ。
たとえば『many screens』での果穂もそうだ。人の数だけ視点があるからこそ、自分たちが見せる姿が思いもよらぬ反応を呼び起こすこともある。観る側としての真似事しか知らなかった彼女は、自分たちが観られている側であることを知った。
ならば、自分が見せたいものを多くの異なった視界の前で表現することだってできる。それは、自分とは違う視座の持ち主が意見を出し合って、初めて実現できた果穂だけのヒーローショーなのだ。
たとえば『流れ星が消えるまでのジャーニー』では、かつて何をするにも何を欲するにも一緒だった双子の大崎姉妹が、甜花と甘奈、別々の『個』に育った経緯が描かれる。お互いが、お互いの、違っているところを好きだと言い合える。
わたしたちは、ちがう。そういう自負を持った上で、尊敬し合い、病める時も健やかなる時も、共に分かちあう関係性を築いてきたからこそ、「似ている」と間違われることが喜びとなる逆説が成立するのだ。
イベントコミュ『明るい部屋』では、2020年の最後を飾るに相応しい、総括的なテーマが描かれた。人が増えれば、それだけ部屋も増える。
部屋が増えることは、気持ちが増えることだと恋鐘が言うように、何もそれは物理的な居室だけを意味しない。扉で閉ざされていながらも、部屋主の意志で他者を招き入れることもできる、個々のパーソナルな領域を示すモチーフとしての部屋。ひとりのアイドル、それぞれのユニット、そして同じ事務所の仲間。
サービス開始から2年半強という時間の中で、様々なレイヤーごとに丁寧に育まれていった人間関係の現在地が、ユニット越境という形で寮というひとつの場を通して提示された。
ひとつひとつのきっかけを、ひとりひとりが大事にしている。それは彼女たちが自分たちのユニットの中でやってきたことで、それが今ひとつのコミュニティの中で拡張されるように行われている。その上で、「仲良くなること」を一律のゴールとして提示しないのが、シャニマスが語る物語の誠実さなのだということが、『アジェンダ283』を経たことで分かるように構成されているのだ。
すれ違いながらも、少しずつ歩み寄り、徐々に関係性を進展させていく。それこそが、物語の健全な在り方だと言われれば、全面同意はしないまでも否定し切れない。それがキャラクターコンテンツなら尚更である。しかし、塗装された道から外れたどこに繋がってるのか分からない線路でスタンド・バイ・ミーするのが、王道に対する邪道を司るノクチルというユニットだ。
幼馴染という不可侵領域(浅倉の部屋がそれを象徴する)の維持を最優先とする彼女たちは、明らかに他ユニットとの交流が乏しい様に描かれている。だが、何も彼女たちは他者を拒絶しているわけではないのだ。
社交辞令であれ、事務連絡であれ、すれ違いざまに一言二言交わすだけであれ、それもまた人との関わり合いの在り方のひとつである。今後どうなるかはわからないが、少なくとも私には、そんなノクチルの現状自体がいずれ解決されるべき問題として描かれているようには、どうしても思えないのだ。まあ、小糸に関してはコミュニケーションどうこう言うレベルじゃなかったのでさすがに手が入りましたけど。
踏み込まなくても、繋がることはできる。自他の境界線を分けた上で、どういう風に互いの距離を設定するのか。本来ならそこに正解などはないはずだ。極端に言えば、ガチで仲の悪い関係性が描かれる余地すらある。まあ、シャニマスでは多分やらない、というかやる必要はない、とは思いますけどねー。
『天塵』では「アイドルがいる人」という物議を醸すワードが飛び出したりもして、やはりマスの需要と、それに答えようとする制作の意志はあると思う。一方で、そこからこぼれ落ちてしまうものを、上手い具合に物語のテーマとして落とし込もうと、バランスを探っているような感覚もあるのだ。
アイドルの『個』を輝かせるために多様性を担保するなら、ある程度は空気の流れに逆らう必要だってある。誰かの不興を買うヤツだって、他者を脅かさない限りは当たり前に存在してもいいのが、多様性のある世界ですからね。ノクチルが『透明』というキャッチコピーを背負ってきたのは、社会的に無視される連中、という意義も多分に含んでいたんだなと、今になって思います。
これは昨日観た『ブックスマート』という映画で描かれていたことでもあるんですけど、印象やレッテル、思い込みを排してよく知らかなかった相手と話してみると、みんながそれぞれの個性を持っている、という当たり前のことに気付くんですよ。これ、言葉にするとめちゃくちゃ有り体で安っぽくなんちゃうんだけど、それを実感として得るのって実はめちゃくちゃ難しいと思うんですよね。人間はバイアスの奴隷ですからね。その方が楽だから。
他者と向き合う、それだけで、きっと見える世界は解像度を上げる。それを確かな喜びとして描けばこそ、ひいては自分という存在を認めることにも繋がる。それが自分とは違う他人がいるという事を知る物語が、彼女たちひいては現在を生きる我々への『祝福』たる所以なのだと、私は思います。
ありがとう、アイドルマスターシャイニーカラーズ。
来年もよろしくな。待ってろ小糸。
わかりやすさ、大事。
2年目のシャニマスが、『個』があまねくこの世の不条理にぶつかった時、どのように折り合いを付け、あるいは闘っていくのか、もはや『生きて行き方』と言ってもいいものを見つけていくフェーズだったとする。
それらを乗り越えた3年目のシャニマスが、一体何を描く様になったのか。まあ一言でまとめる事自体が暴挙であるという感覚は拭えませんが、あくまで個人的に見出したテーマとして言うならば、『祝福』の物語である、という結論を先に掲げた上で、イベントメインで部分的に拾いながら語りたいと思う。
今年のシャニマスで、個人的に最も印象に残ってるのは、アイマス界の鉄華団あるいは麦わらの一味と言われたり言われなかったりする無限エモ製造機青春集団ノクチルの登場、は置いとくとして、イルミネーションスターズの存在感が一気に強まってきたことである。いや、お前の目が節穴だっただけだろと言われればそれまでですが……。
めぐるの事は元からトップクラスに好きだったけど、ここにきて真乃と灯織がめちゃくちゃ好きになった年だったなぁと、振り返って思うわけです。
実際問題、イルミネがこの2年間積み上げてきた繊細な関係性が、3年目のテーマとリンクして結実した年だったと思うわけですよ。
それを象徴するのがイベント『くもりガラスの銀曜日』。2年目に入って起承転結がハッキリとしたイベントコミュが増えてきた中で、明確なストーリーラインがないという一点を以て異質なコミュとなっている。情緒全振り自体はシャニマスの得意技だけど、丸々一本のイベントコミュでここまで特化したのは初めてでは?
空模様をスイッチにして、過去と現在を行き来しながら、イルミネの今の関係性が彼女たちが互いを知ろうと手を伸ばし続けてきた不断の意志によって形成されたものである、というのを如実に示したストーリー。
元ネタが追いきれないほどに、過去のコミュを参照しながら、些細なやり取りのひとつひとつが彼女たちだけの符牒となっていることが示されていく。その一つである『銀曜日』という言葉を、真乃は「偶然、気持ちが揃う日のこと」だと言う。
いつも仲が良くて以心伝心、知らない事なんてないんじゃないかと傍目には見える3人。だけど、当人たちにとっては、「一緒にいること」は当たり前なんかじゃなくて、星に手を伸ばす様につかみ取った奇跡であることを知っている。ハッピーアイスクリーム!
だから灯織も、何もかも全部分かりたい、伝えたいという願いを内に抱きつつも、そう思い続けることこそが大事なのだと前を向くのだ。
他方、『アジェンダ283』では自主的に始めたゴミ拾いが、いつの間にか事務所を挙げた一大イベントになってしまったことで、自分の意志を他者に押し付けてしまうのではないか、という真乃のささやかな懊悩が描かれた。
ボランティア精神に基づいた課外活動には、なるほど確かに意図しなくても一種の強制力が働くこともある。けれど、ルールを設けず、楽しむことを第一義とするならば、あとは各々の自由である。真面目に環境問題に取り組んだっていいし、自己アピールのネタにしてもいい。ゴミを拾った良いし、サボって遊んだっていい。
ある目的を以て設けられた場において、何を思って何をするか、そしてどう楽しむのか。その有り様は千差万別で、人の数だけ違う視座と視界がある。ユニット間を渡り歩いてそれらを垣間見たイルミネ、そして真乃は、人が増えたことで、縦にも横にも広がった世界の実態を知るのだ。
白眉はEDで描かれた真乃と浅倉のダイアローグである。
浅倉透は内心を外部に出力するのが人一倍不得手な人物として設計されており、プロデュースを通して自他における自己表現度合いのギャップを認識した経緯を持っている。加えて、社会によって要請される『偶像』とのズレを自覚しているノクチルの一員であり、彼女たちは283プロ内でも他とは一線を画した位置づけに置かれている様子が描かれた。
真乃は輪から外れて、早々に河原から抜き出すノクチルを見て、意図せぬ同調圧力で彼女たちは嫌々参加しているんじゃないかと危惧していたし(コイツらはそんなタマじゃない、というのは神の視点での話である)、浅倉は浅倉で、自分たちがなんとなく浮いていることをなんとなく察していた。
その人がどんな人で、何を感じて、何が違うのかは、結局のところ話してみないと分からない。言葉は完全ではないから、全部は伝わらないし、全部はわからないけど、伝わらなくても分かること、分からなくても伝わることがある、というのをシャニマスはずっと描いてきた。
他のユニットに対してもそうだったように、ノクチルの輪に入ってみることで、真乃は彼女たちもちゃんとこの機会を楽しんでいてくれたことを実感することができた。ここで重要なのは、誤解していたのは真乃だけではなく、浅倉にとってもそうだった、ということ。自分たちは、みんなとはちょっと違っている。けれど、それは同じじゃないことを意味しない。
余計な空気を取っ払ってしまえば、きっと誰もがちょっとずつ違っている、当たり前のことだ。群れから離れた鯨は周囲を拒絶しているわけではないし、輪の中心に立つ鳩は真面目一辺倒の委員長ではない。違っているのが当たり前で、それでも一緒と思える奇跡があるから、バラバラの人間でも繋がれるのだ。
平和の白鳩と52ヘルツの鯨、彼女たちの邂逅が、3年目のシャニマスを最も象徴する出来事だったのだと、振り返って改めて思います。
さて、ここいらで改めて最初に提示した結論に立ち返ろう。シャニマスは3年目にして『祝福』のフェーズに入っている、という話である。
すなわち、「わたしとあなたは違う人間である」という自他の断絶性への祝福である。人は他人のことを、時には自分のことさえ、完全に分かることはできない。これは、おそらくはサービス開始当初からずっと描き続けていたことである。3年目に入ってようやく、それを大々的に
素晴らしいものとして描けるようになった、と言い換えてもいい。
違う人間だから、知らないから、分からないから。分かろうと悩むことができる、知ろうと手を伸ばすことができる、同じだねと笑い合うことができる。たったそれだけで、闇の中に光が射すことを、試練の時を経た彼女たちはもう知っている。そして、その分だけ世界は照らされ、視界は広がっていくのだ。
たとえば『many screens』での果穂もそうだ。人の数だけ視点があるからこそ、自分たちが見せる姿が思いもよらぬ反応を呼び起こすこともある。観る側としての真似事しか知らなかった彼女は、自分たちが観られている側であることを知った。
ならば、自分が見せたいものを多くの異なった視界の前で表現することだってできる。それは、自分とは違う視座の持ち主が意見を出し合って、初めて実現できた果穂だけのヒーローショーなのだ。
たとえば『流れ星が消えるまでのジャーニー』では、かつて何をするにも何を欲するにも一緒だった双子の大崎姉妹が、甜花と甘奈、別々の『個』に育った経緯が描かれる。お互いが、お互いの、違っているところを好きだと言い合える。
わたしたちは、ちがう。そういう自負を持った上で、尊敬し合い、病める時も健やかなる時も、共に分かちあう関係性を築いてきたからこそ、「似ている」と間違われることが喜びとなる逆説が成立するのだ。
イベントコミュ『明るい部屋』では、2020年の最後を飾るに相応しい、総括的なテーマが描かれた。人が増えれば、それだけ部屋も増える。
部屋が増えることは、気持ちが増えることだと恋鐘が言うように、何もそれは物理的な居室だけを意味しない。扉で閉ざされていながらも、部屋主の意志で他者を招き入れることもできる、個々のパーソナルな領域を示すモチーフとしての部屋。ひとりのアイドル、それぞれのユニット、そして同じ事務所の仲間。
サービス開始から2年半強という時間の中で、様々なレイヤーごとに丁寧に育まれていった人間関係の現在地が、ユニット越境という形で寮というひとつの場を通して提示された。
ひとつひとつのきっかけを、ひとりひとりが大事にしている。それは彼女たちが自分たちのユニットの中でやってきたことで、それが今ひとつのコミュニティの中で拡張されるように行われている。その上で、「仲良くなること」を一律のゴールとして提示しないのが、シャニマスが語る物語の誠実さなのだということが、『アジェンダ283』を経たことで分かるように構成されているのだ。
すれ違いながらも、少しずつ歩み寄り、徐々に関係性を進展させていく。それこそが、物語の健全な在り方だと言われれば、全面同意はしないまでも否定し切れない。それがキャラクターコンテンツなら尚更である。しかし、塗装された道から外れたどこに繋がってるのか分からない線路でスタンド・バイ・ミーするのが、王道に対する邪道を司るノクチルというユニットだ。
幼馴染という不可侵領域(浅倉の部屋がそれを象徴する)の維持を最優先とする彼女たちは、明らかに他ユニットとの交流が乏しい様に描かれている。だが、何も彼女たちは他者を拒絶しているわけではないのだ。
社交辞令であれ、事務連絡であれ、すれ違いざまに一言二言交わすだけであれ、それもまた人との関わり合いの在り方のひとつである。今後どうなるかはわからないが、少なくとも私には、そんなノクチルの現状自体がいずれ解決されるべき問題として描かれているようには、どうしても思えないのだ。まあ、小糸に関してはコミュニケーションどうこう言うレベルじゃなかったのでさすがに手が入りましたけど。
踏み込まなくても、繋がることはできる。自他の境界線を分けた上で、どういう風に互いの距離を設定するのか。本来ならそこに正解などはないはずだ。極端に言えば、ガチで仲の悪い関係性が描かれる余地すらある。まあ、シャニマスでは多分やらない、というかやる必要はない、とは思いますけどねー。
『天塵』では「アイドルがいる人」という物議を醸すワードが飛び出したりもして、やはりマスの需要と、それに答えようとする制作の意志はあると思う。一方で、そこからこぼれ落ちてしまうものを、上手い具合に物語のテーマとして落とし込もうと、バランスを探っているような感覚もあるのだ。
アイドルの『個』を輝かせるために多様性を担保するなら、ある程度は空気の流れに逆らう必要だってある。誰かの不興を買うヤツだって、他者を脅かさない限りは当たり前に存在してもいいのが、多様性のある世界ですからね。ノクチルが『透明』というキャッチコピーを背負ってきたのは、社会的に無視される連中、という意義も多分に含んでいたんだなと、今になって思います。
これは昨日観た『ブックスマート』という映画で描かれていたことでもあるんですけど、印象やレッテル、思い込みを排してよく知らかなかった相手と話してみると、みんながそれぞれの個性を持っている、という当たり前のことに気付くんですよ。これ、言葉にするとめちゃくちゃ有り体で安っぽくなんちゃうんだけど、それを実感として得るのって実はめちゃくちゃ難しいと思うんですよね。人間はバイアスの奴隷ですからね。その方が楽だから。
他者と向き合う、それだけで、きっと見える世界は解像度を上げる。それを確かな喜びとして描けばこそ、ひいては自分という存在を認めることにも繋がる。それが自分とは違う他人がいるという事を知る物語が、彼女たちひいては現在を生きる我々への『祝福』たる所以なのだと、私は思います。
ありがとう、アイドルマスターシャイニーカラーズ。
来年もよろしくな。待ってろ小糸。
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